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苦難の恩寵
ピリピ1章27〜30節

錦織 博義 師

しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。(37)

 御言は、「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜っている」と言う。「信仰生活には苦しみはつきものである」と言うのである。

信仰は神からの賜物である
 「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく」、すなわち、私たちは信仰を賜わっている、私たちの信仰は恵みとして与えられたものである。私たちはどうかすると、「信仰」を何か一つの信念のように考えていないのか?何でもいい、自分の心に「確信」があったならばと考えている。その場合には、信じる「対象」はなんでもいい。信仰が神から与えられるものであるとは思わず、ただ自分で考え、自分でそう確信すればそれでいいと思っている。つまり、『信仰は気持ちの持ちよう』と考えているのである。そういう信仰は、信仰ではない。真の信仰は、まさに神の賜物である。

苦難も賜物である
 28節は信仰者には戦いのあることを示している。この世は「曲がったよこしまな時代」である。そこを真っ直ぐ生きようとすれば、衝突があるのは当然である。信仰生活は戦いの生活である。「キリストのために苦しむ生活」である。それのない生活というものはない。日本で最初に洗礼を受けた人の、「受洗テスト」は『あなたはキリストのために命を捨てる覚悟がありますか』であったという。
 そこで大事なことは、「苦しむことも賜っている」ということである。この「賜わる」とは、「恵みとして与えられる」ということである。ある神学者は「この苦しみは、神の子として受け入れられたことの徴である」と言う。信仰生活に訓練がないとするならば、それは本当の子ではない。

苦しみは愛の故
 私たちが信仰生活をするということは、キリストと交わることである。「キリストと交わる」とは、「キリストを愛する」ことである。否、「キリストに愛されていることを実感する」ことである。そして本当に愛しているならば、苦しむことにも耐えられる。「あの人といると楽しい」という。それはすばらしいことである。しかし楽しいことだけを望んで、苦しいことを嫌うとしたら、それは真の交わりではない。私たちだけが苦しむのではない。キリストがあのゲッセマネにおいて苦しんで下さった。それはまさに愛するが故の苦しみであったのだ。


    
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