日ごとの食物を求める祈り
ルカ11章1-4節
わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。(3)
主の祈りですが、神さまの御名が、御国が、御心が、というように、神さまに心を向ける祈りになっています。ただ同時に主は私たちが自分のことを祈ることをゆるしてくださいます。後半は自分のための祈りになります。
1 日ごとの食物を
私たちは案外、祈るまでもなく食べる物があるのは当たり前と思っているかもしれません。しかし、私たちが毎日、自分たちのことの最初に日ごとの食物を、と祈る中で、食べるという一番基本的なところから、私たちは神さまに支えられている、生かされている、ということを確認するのです。この祈りを丁寧に祈る中で、私たちの一日一日、また一呼吸一呼吸がまさに神の支えの中にあるのだということを知るのです。
2 日々、きょうも
この祈りは日ごとの祈りです。日々、お与えください。マタイによる福音書では「今日も」という言葉になっています。ここで私たちは気づかされます。私たちは毎日この祈りをしなければならないのです。私たちは毎日食べて、毎日、神さまに感謝するのです。
私たちは、日々与えてください、という祈りの中で、私たちは荒野をさまよったイスラエルの民のことを思い起こします。二百万とも言われた民を神は養ってくださいました。基本的に毎日、朝イチにマナという食べ物が宿営の周りに降った。イスラエルの民はそのマナを食べて、荒野の四十年を過ごしました。毎日、その日の分を集めて、その日に食べました。マナは保存はできませんでした。その日のうちに食べないと虫がわいてしまう。だからその日の分を集めて、その日に食べる。「大丈夫、明日も主は必要を与えて下さる」と信じて、今日の分を集め、今日の分を食べる。
主は私たちの必要をご存じで、日々、その日その日、必要を満たしてくださるのです。
3 わたしたちの祈り
この祈りは「わたしたちの」祈りです。「わたしの」日ごとの食物ではありません。もちろん、わたしたちの中にはわたしも入っています。ただ、主が教えられたのは自分の必要、自分の満足だけではなく、わたしたちという視野の中で、祈り、求め、生きていきなさい、ということです。まさに祈りは、単なる言葉ではなく、私たちの生き方だからです。私が満腹だったらそれでよいのではない、飢えている、困難の中にある誰かと一緒に食事ができるように、私たちは共に祈りたいと思います。
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