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やった、見つけた!
ルカ15章8〜10節
錦織 学 師 (米国・ニュージャージー日本語教会牧師)
よく聞きなさい。それと同じように。罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使いたちの前でよろこびがあるであろう。(10)
「やった、見つけた!」という題ですが、私たちが神を求め、真理・命・道を求めて、それを見いだして・・・というのではなく、神様の方が私たちを見つけて「やった、見つけた!」と喜んでくださるというのです。
ここではひとりの女性が十枚の銀貨を持っていたけれど、一枚をなくしてしまったと言います。たとえば銀貨が一枚、タンスの裏にはいってしまったとします。その場合、その銀貨の存在としての価値は変わりません。しかし、持ち主にとっては、その価値・意味を失ってしまっています。私たちも、本来いるべきところにいないなら、その価値を生かすことができません。神様は私たちをすばらしい高価で尊い存在として造ってくださいました。けれども、私たちが本来あるべきところにいないなら、存在としての価値はあるけれども、それを生かすことができない。私たちも、神と共に歩み、神を愛し、賛美し、神に愛されたものとして生きるように造られたのに、神様から離れてしまったら、その本来の価値を生かすことができないのです。
この女性は見つかるまで探しました。私たちは何かを失くしても、あきらめてまあいいやと新しいものを買うことがあります。けれども神様は私たちのことをごらんになって、まあ、いいやとは言われませんでした。神様は私たちのことをごらんになって、私たちの世界に飛び込んできてくださった。そして、すべての罪を背負ってあの十字架の上で私たちのために死んでくださいました。本来私たちが負うべき罪の呪い・その罰を身代わりに受けてくださって、本来なら私たちが叫ばなければならない「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びを叫んでくださいました。あの十字架の叫びは、本当に私たちの罪の呪いを受けてくださった私たちの身代わりとしての苦しみの叫びです。神様はそこまでして、私たちを探してくださり、私たちを救おうとしてくださいました。そして私たちのことを見つけ出して「やった、見つけた!」と言ってくださる。
私たちはこの神様の招きに対してどのようにお答えするでしょうか。10節には「同じように罪人がひとりでも悔い改めるなら」とあります。私たちも悔い改めて、私たちを受け入れてくださる神様に方向転換して、神様に帰って行くべきなのではないでしょうか。神様は喜んで私たちを受け入れ、「やった、見つけた!」と喜んで迎え入れてくださるのです。
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