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「アバ、父よ」と神を呼ぶとき天が香りを放つ
ガラテヤ4章1〜11節 郷家 一二三 師 (坂戸キリスト教会)
このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。 (6)
パウロがガラテヤに福音を伝えた時、人々は喜びをもって福音、主イエスの十字架の贖いによる救いを信じる信仰による救いを受け入れました。しかし、パウロが去った後、ユダヤ教に熱心な人々がやって来て、主イエスを信じるだけでなく、律法を守り、また割礼を受けるということが大切だと主張した時、ガラテヤ教会は大きく混乱しました。それは単に1世紀のガラテヤ教会に起こったローカルな問題ということではなく、私たちにも非常に大きな関わりをもった問題です。たとえば、ホーリネスは徹底的に恵みなのに、いつの間にか他のものさし、他のはかりで、あれをしていないと裁き、これをしていると裁く。いつの間にか恵みから離れ、以前のところに戻ってしまう・・・。
信仰とは何か。救われるとはどういうことか・・・それは天の神に「お父さん」と呼びかける歩みが始まるということです。
神の子なるイエスは、天から降り、律法の下に生まれてくださいました。それは律法に苦しむユダヤ人たちを救い、またもろもろの霊力に縛られて苦しんでいる異邦人たちを救うためでした。そのために神自らが栄光の位を捨ててこの世に来てくださいました。そして、十字架にかかり、その十字架の主イエスを信じる者を義とし、きよい者としてくださったのです。このように一番尊い犠牲が払われたのですから、私たちはそれに何かを足す必要はありません。
神は私たちを神の子とし、一番大切なものを与えて下さいました。それは神を「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊です。「私を、アバ父よと呼んでいいよ」と御子の霊を与えて下さったのです。本来、神を「父よ」と呼ぶことができるのは、神の子なる主イエスだけです。けれども、今は、神を「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊が与えられ、私たちも神を「アバ、父よ」と呼ぶことができる。
主イエスがその御生涯で「アバ、父よ」と祈られたことがマルコ14章36節に記録されています。それはゲッセマネの祈りの場面です。主イエスが一番苦しかった時、主は「アバ、父よ」祈られました。苦しく、八方塞がりのように思えるような時、私たちも「アバ、父よ」と呼び、また父なる神に信頼して従っていくのです。
私たちはこの神を父とする神の家族です。この神を共に父と呼び、主イエスと共に苦しみも喜びも担っていく、礼拝者として、福音に生き続けていく、私たちはそのような歩みの中に招かれているのです。
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