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すべては主の憐れみから
ルカ10章25-37節
羽佐田 和世 師
ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。(33-34)
一人の律法学者が、イエスさまを罠にかけて陥れようと、永遠の命を得る方法を尋ねました。ところが会話の流れの中で律法学者は、イエスさまを裁くつもりが、自分がみ言葉に生きていないと、裁かれていることを感じました。だからその自分を弁護しようと「わたしの隣り人とはだれのことですか」と尋ねました。自分を弁護するというのは、別の訳では自分を正当化しようとして、となっています。それは自分はやるべきことはやっていて、神に認められる正しい人間だということを示そうとすることです。それを自己義認と言います。そのような態度についてある人は、「自分がただ憐れみによってのみ生かされていることを知らない」からだと言います。
そんな律法学者にイエスさまはたとえを語られました。一人のユダヤ人が旅の途中強盗に襲われて半殺しにされました。彼を助けたのは、ユダヤ人にとって敵であったサマリヤ人でした。彼を見ると気の毒に思ったからです。この「気の毒に思う」は「憐れに思う」とも訳されています。これは、神さまの憐れみにだけに使われる言葉です。それは目の前の人の苦しみ痛みに、全存在をかけて動かされる思いを表しています。つまりこのサマリヤ人とはイエスさまのことを示していました。そして襲われた人は律法学者だったのです。
律法学者は「私の隣り人とは誰か」と問いましたが、イエスさまは「隣り人になったのは誰か」と問われました。これは隣り人の転換です。律法学者や私たちが誰かの隣り人となる前に、イエスさまが律法学者や私たちの隣り人になってくださったのです。十字架で死んで罪を裁かれ、よみがえられることによってです。さらにイエスさまは強盗に襲われた旅人でもありました。
「あなたも行って同じようにしなさい」とイエスさまは言われました。私たちがこの言葉に生きるには、主が私たちをどんなに憐れんでくださっているかを日々知り続ける必要があります。主の憐れみを抜きにしてこの言葉を行おうとするなら、私たちは愛に生きることはできません。しかし主の憐れみを知り続けるなら、自己を正当化しようと言い訳ばかりする私たちの心は変わります。主の憐れみは、私たちを悔い改めと感謝と賛美に導くからです。主の憐れみに立って歩む時、私たちも主の招きに応えさせていただけるのです。
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