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祈りと霊の助け
ピリピ第1章18-20節
あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けによって、この事がついにはわたしの救いとなる(19)
18節で「わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう」とあります。パウロは獄中にありながら、神の恵みが明らかにあることを信じることができたのです。
それが遂にはわたしの救いになる
「この事が、遂にはわたしの救いとなる」という言葉は、ヨブ記13:16の引用だと言われます。いろいろな事が起り、どれ一つ取ってみても、とても考えられないような時、自分の願いに勝って、すべての事が喜びに変えられていくのです。どんな困難も信仰の目を持って見れば、信仰の完成に役立つ、「自分の救いに役立つ」というのです。
この「救い」は、聖められ、キリストの御姿を映すようになるという事であり、栄光の身体に変えられるという事です。一つはこの地上において成就し、他方は再臨の時に成就するのです。
そのために働く二つの要素は、祈りと聖霊の助け
第一は「あなたがたの祈り」です。パウロほど、他人の祈りを期待し、それを信じていた人はいません。互いに祈り合っているということが、教会生活の重要な利点です。このように、祈りを期待する人は、自分の弱さを本当に知っている人です。神に信頼し、祈りの力を知っているからです。
もう一つは、祈りを期待する人は、結局私たち人間は神によらなければ完成されないということを知っている人です。私たちの思う成功も失敗もすべて神によって用いられ、神によって完成させられて、本当に意味あるものにされるのです。その背後にあるものは、祈りによる協力です。一緒に祈る時にこそ、共に戦っているのです。
もう一つの事は、「イエス・キリストの霊の助け」です。ある人はここを解説して、「祈りの本当の拠り所は、神のみ言葉・約束である」と言っています。祈りが聞かれるという事、祈る特権を与えて下さったということはキリストのみ言葉・約束です。ここに信頼することのできるお方がおられます。だから祈るのです。
ヨブは一切の物を失いました。全てを失った時、最後には何が残るでしょうか。何が自分の力になるでしょうか。神の前に出る事です。神が自分を見ていて下さるという事です。「側にいます主」を認めることであり、み言葉を与えられられることです。それを信じることが、まさに「祈る」ことです。
「イエス・キリストの霊」とありますが、「あなたがたが祈ってくれたお陰で、一層深く、神ご自身がわたしの側にいて下さる事を信じることができるようになった」というのです。
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