恵みと祈りの霊を注ぐ
ゼカリヤ12:10-13:1
わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。(10)
ついに神殿が再建され、礼拝が回復しました。しかし、ゼカリヤは神殿の再建で終わりだとは思っていません。神さまはやがて本当にエルサレムを祝福し、その栄光を回復してくださる。そして、ゼルバベルに、権勢によらず、能力によらず、わたしの霊による、とおっしゃった主は、必ず、エルサレムに恵みと祈りの霊を注いで下さるというのです。
1 恵みの霊
@罪と汚れのきよめ
ゼカリヤは言います。「罪と汚れとをきよめる一つの泉が・・・開かれる」。イスラエルの民が国を失ってしまったのは、彼らが神に背いたからです。もちろん、彼らは捕囚の生活を終えて帰ってきたのです。それは主がゆるしてくださったというメッセージでもあったでしょう。しかし、本当に、イスラエルの民は神に従って生きることができるのでしょうか。だから神は恵みの霊を注ぐとおっしゃり、罪と汚れをきよめる泉、とおっしゃるのです。自分ではそのことはできないけれども、その泉にふれると罪と汚れがきよめられるのです。
A力が与えられる
私たちにその霊によって力が与えられる。でも、私たちは弱いし・・・と私たちは言いたくなります。けれども、主が私たちを守ってくださる。そして、私は弱い弱いと言う者たちも、その日にはダビデのようになる、と言うのです。自分のうちに力がないということを知っていることは大切でしょう。しかし、そのような弱いものに主は霊を注ぎ、恵みを注いで強くしてくださるのです。
2 祈りの霊
主は祈りの霊を注ぐとおっしゃいます。私たちにとって何よりも大切なのは「祈り」に生きることです。しかし、実際にはその祈ることが難しいのです。祈りとは単に神さまにお願いすることではありません。神の御前に生きることです。神との命のつながりの中に、神との交わりに生きることです。しかし、それが難しい。祈ろうとすると、サタンは私たちを妨害しようとします。だからパウロは聖霊はそこを助けてくださるのだというのです。
私たちに恵みと祈りの霊が注がれています。主は私たちの罪と汚れをきよめ、力を与え、祈りに導いてくださるのです。ゼカリヤはこの霊の働きなしにイスラエルに救いがないことを知っていました。そして主の霊は、この弱さの中にあるイスラエルにもそのことをしてくださると語ったのです。
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