福音にあずかる者
ピリピ1章3〜11節
錦織博義師
それは、わたしが獄に捕われている時にも、福音を弁明し立証する時にも、あなたがたをみな、共に恵みにあずかる者として、わたしの心に深く留めているからである。(7)
パウロは、ピリピ教会に対して、「わたしはあなたがたと共に恵みに与っている」と言います。
共に恵みにあずかるとは?
この恵みにあずかっている者は、自分は神も人も愛することができない、他人からも愛を期待できないことを知っています。それは「自分は愛される価値がない」という自覚からスタートすることです。「罪の自覚」です。しかし、そこで絶望するのではなく、キリストに罪赦されて、神に愛されて、今この恵みの中に生きているのです。だから、自分が赦されたように他人も赦すのであり、自分が愛されたように他人をも愛することのです。
ピリピ教会にはパウロの立場からするならば、首をかしげたくなるような信徒もいたでしょう。しかし彼は、「自分はキリストの恵みがなければ生きていけないし、君たちも同じである。だからキリストの恵みに生きようではないか」と言うのです。それは「神に愛されている者が共に生きている」ということです。このように私たちの信仰生活は、「自分は罪人である」ということを知って、そんな私が「神に愛されている人間である」ということを受けとめることです。
具体的に
パウロはここで、「獄に捕らわれている時にも、福音を弁明し立証する時にも」と言います。それは具体的に、「共に福音を証しする生活をしている」ことです。それが最も大切な条件です。
もう一つ「福音を弁明し立証する」とは、福音に堅く立つということです。福音に堅く根ざし、福音に立って行動する生活です。お互いに伝道する時、福音に堅く根ざす生活をするために互に励まし合っていくのです。一緒に伝道し、一緒に福音を証し、互に信仰が強くなるように努力し、励まし合うのでなければ、「共に恵みにあずかる」生活はありません。
苦しみにあずかる
「共に恵みにあずかる」ということは、キリストの苦しみにも共にあずかることです。「わたしたちは彼を信じることばかりではなく、彼と共に苦しむことをも賜っている」と言われ、「またキリストとその復活の力を知り、その苦難にあずかって、その死の様にも等しくなり」と言われています。それが「福音にあずかる」「恵みにあずかる」ということです。私たちにも、今朝この恵みは備えられているのです。
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