創造主を見上げて
イザヤ40章12〜26節
目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。(26)
預言者イザヤは、罪を犯し、神の裁きの下に置かれたイスラエルの民でしたけれども、彼らのために慰めが宣言されるときが来る、と語りました。そして実際にイスラエルの歴史には何度が慰めの時がありました。ほっとするような、「神さま感謝です」「神さまは本当に真実な方、すばらしい方です」と神さまを賛美する時もありました。でも、それがイザヤ書四十章の成就かというと、それはやっぱり違う。彼らは待っていました。そして、本当に慰めをもたらす方として主は来てくださったのです。
今日、読みました箇所には、慰めをもたらしてくださる主は創造主だということが書かれています。
1 超越者なる主
創造者と言うことはどういうことかというと、私たちをはるかに越えたお方と言うことです。掌をもって海を計り、指をもって天をはかられる。天秤で山を量るよう。島なんかほこりのよう。「わたしを誰に比べるのか」。いいえ、比べようがない。比べるのが申し訳ない。
どんなに背伸びしても届かない、私たちをはるかに越えた方、私たちは神に造られたもの、神は創造者だ。どんなに大きな国があっても、だからどうした、とおっしゃるのです。この方は欠けたところがいっさいない方なのです。私たちの悩むことは、この大きな神さまにしてみれば、まことに小さいことです。私はこの神であるのに何を心配しているの、何も心配いらないでしょうと主は近づかれるのです。
2 すべてを造られた方
この方は大きな方。けれども、同時に、この主はすべてのものを造られたお方。目を上げて見てごらん、何が見える? そう、目に見えるものはみんな神さまが造られた。確かに私たちは吹けば飛んでいくような弱いものかもしれない。けれども、こんな私もあなたも、そして目にみえるすべてのものは神が造られたのです。
3 その名を知り、呼ばれる方
神さまは超越者だ、すべてを造られた方だ、でもそれだけではない。大きな神さまからしてみたら、一体、どこの誰だって、全然関係ないって言われても仕方がない。でも、神は数え、また名を呼ばれる。
知ってください。クリスマスはまさにこの大きな創造者である主があなたに関心を持ち、あなたを呼び、あなたを愛して、あなたのために人になってきてくださった、ということなのです。
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