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涙をもって種をまく
詩篇126篇1〜6節
涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。
種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。(5〜6)
詩篇126篇は福音宣教・世界宣教への招きの御言としてよく語られる、とても有名な御言です。この詩篇が詠まれた時代は、「主が繁栄を回復された時」でした。この詩篇は捕囚の人々がバビロン捕囚から解放された時に歌われたものなのです。この詩篇を書いた人は「夢を見る者のようだった」「主は我らのために大いなることをなされた」と語ります。ここには三つのギャップがあります。
第一番目のギャップは、私たちの思いや目に見える現実と神の御業のギャップです。確かにイザヤもエレミヤも、捕囚からの回復を預言していました。しかし、捕囚の人々にとってはそれはとても考えられないようなことだったことでしょう。神は私たちの思いをはるかに越えたことをなさるのです。ただ一方で、私たちの願うことがなかなか思い通りにならないことも私たちは知っています。目に見える現実は厳しいかもしれません。神のなさることと私たちの思いにはギャップがあるかもしれません。しかし、私たちは神を待ち望みながら祈り続けるべきです。
4節はまた少しトーンが変わります。1−3節ですでに喜びと感謝の祈りをささげているのに、なぜこのように言うのだろうかと思います。帰還の民の現実は実際にはとても厳しいものだったのです。ここに二つ目のギャップがあります。それは外見と中身のギャップです。喜んで帰還しても、実際にはそこで直面する現実はとても厳しい。ネゲブの川は雨期にしか流れない川です。今はそこに川のような外見はあるけれども、水は見当たらない。現実に直面するときに、私たちは流れを回復してくださいと聖霊のはたらきを求める必要があります。
三つ目のギャップは内向きの生き方と外向きの生き方のギャップです。非常に厳しい現実があります。この種をまいたら食べるものがないかもしれない。余裕などどこにもない。まさに涙をもって種をまく。二つの生き方があります。内向きの姿勢と外向きの姿勢、守りの姿勢と責めの姿勢です。どんなに犠牲があり、厳しい現実に直面しても、種をまいていくときに、豊かな収穫の時を迎えることができるのです。
ギャップを埋めるのは、具体的には涙の祈りをもってとりなすことです。また犠牲を払うという覚悟です。犠牲をいとわず、種をまいていくことです。私たちも涙の種をまき続けるお互いでありたいと思います。
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