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御国を来たらせたまえ
マタイ6章10節
高橋 誠 師 (八王子教会)
御国が来ますように(10)
この「御国が来ますように」という祈りは主の祈りの中でも一番大切な言葉だと言います。誰がその国の支配者になるかで、その国の見え方が変わってきます。その意味ではこの言葉は非常に明るい言葉です。この神が支配者であったら、そこには明るい希望があるのです。私たちはその神の支配の中に生きています。あなたは神の国に生きているのです。今それがないから、求めなさいということではなく、それがあるのだから、それを信じて、その拠点が広がるようにあなたも置かれた場で祈ってほしいと主は求められたのです。
「御国に行けますように」ではなく、「御国が来ますように」という祈りです。天国は「行く」のではなく、「来る」のだ。私たちは神の支配はどこか遠いところにあるような気がしています。しかし、主イエスは、神の国はすでに来ているのだから、その神の支配が私たちの心に、また周囲に現実となるように求めるようにと求められたのです。主イエスはしばしば「恐れるな」と語られました。恐れるのは、神の支配を信じていないからです。
問題は大きくて、私たちは御国を信じることができなくなっている。けれども御国は来ているのだ。だからそれがあなたの心を占領するように祈れと、主イエスはおっしゃるのです。
マタイ5章からの山の上の説教の中でも、「天国は彼らのものである」という言葉で始まります。そこで主イエスは、神の国はすでにあるのだ、と語られたのです。心の貧しさを抱えてしまう者が、天国は彼らのものと言われます。私たちの足りなさと神の国が同居しているのです。信仰の苦しみ・戦いと神の国は同居するのです。あなたはすでに神の国に生きているのです。
ヨハネはその第1の手紙で、神の国は手で触ることができると言いました。ヨハネは、この世の権力者たちが何をしようとしても、神の支配は揺るがない、と信仰を持って受け止めました。黙示録の中では、ローマ皇帝が世界を支配しているような現実の中で、いろいろな苦悩に触りながら、神の支配を自分の触れるほどの現実として受け止めているのです。
御国の支配者は神です。神が責任を持って下さる。自分が支配者であるかのように握っている何かを手放すのです。それは私が支配したり、コントロールしなければならないものではないのです。
これは戦いの祈りでもあります。しかし、私たちには勝算があります。なぜなら、「天にまします我らの父よ」と祈るようにと呼びかけられる時、「われらの」中に主も加わっていてくださるからです。どんな苦しみも神の支配がないしるしにはなりません。神は苦難のただ中に降ってくださったからです。悪魔はこの祈りを奪い取ろうとします。しかし主イエスが共に祈って下さいます。ここにも神の御国があるのだとと祈って行こうではありませんか。
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