証明者は神です
ピリピ1章3-8節
錦織博義師
わたしがキリスト・イエスの熱愛をもって、どんなに深くあなたがた一同を思っていることか、それを証明して下さるかたは神である。(2)
ここには一人の信仰者が、自分と同じように信仰生活をしているピリピ教会の人たちを愛した愛し方が記されています。
キリスト・イエスの熱愛をもって
元来この言葉は「はらわた」という言葉です。「イエスは・・・大勢の群衆をご覧になり、飼う者のない羊のようなその有様を深く憐れんで」とありますが、ここでパウロは「私はあなたがたを愛している。それは実は、キリストの腹わたが煮えかえるような愛をもってあなたがたを愛している」と言っているのです。
ある人は、「パウロの脈拍はキリストの脈拍と同じように打っていたであろう」と言います。自分が愛しているのではなく、自分の内におられるキリストが自分を通して愛して下さる。それはキリストの熱愛のさなかに生きることであり、私たちに対するキリストの熱愛が原動力となって、私たちを押し出してくれるのです。
あなたがたのことを思っている
パウロは今獄中にいます。だからピリピの信者を見ることも、彼らと共にいることもできません。ある人は「その場所にいない人を愛するということは、その人に会いたいということである」と言いました。
例えば、私たちは日曜日の朝、一緒に礼拝をしたい。私たちがいちばん信仰者らしく一緒にいることは、一緒の礼拝を献げていることです。
ここに3回も「一同」、または「あなたがた一同」という言葉があります。教会に来ているからと言って、みんな気が合うわけではない。性格も考え方も、好みも違う。ただそうであっても、独りの例外もなしに、キリストの熱愛の中で、一緒にいたい。
私たちは、キリストの恵みによってだけ一つにされる。その時初めて、自分の居場所が見つかり、互いの居場所を見つめ合うのです。お互いの居場所を見つけ合う場所、それが礼拝です。互いに神の前で「思い合う」、これが礼拝です。
証明は神がなさる
私たちのしていることの本当の意味を分かり、証人になってくれる人は、どこにいるのでしょうか?「キリスト・イエスの熱愛をもって」愛していること、「あなたがた一同のことを深く思っていること」・・・それを「証明して下さるかたは神」なのです。
そして、単に神が分かって下さるというだけではなく、これは神から与えられたものです。環境や事情がどうあろうとも、神が押し出し、神が用意して下さった「熱愛」であり、神が用意して下さった、あの人との生活なのです。だから、「わたしの証人は神である」という他ないのです。
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