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キリストが崇められる
ピリピ1章18〜26節 錦織博義師
わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。(20)
パウロは「自分は、切実な思いで待ち望んでいる」ことがあると言いました。
恥じることなく
ここで言われているのは、自分が与えられ、生きる根拠にしている希望が辱められることのないようにということです。
私たちの人生はなかなか希望通りに行きません。しかし、ローマ五章には「希望は失望に終わることがない」とあります。それは、「神の愛がわたしたちの心に注がれている」からです。
パウロは獄中生活を余儀なくされ、その上、自分の伝道者仲間たちからも中傷されました。一世紀半ば、「キリスト教」と言っても、ほとんど無きに等しいものでした。その上、神はこの世の賢い者ばかりいる町(ギリシャの町)なのに、教会の中には愚かな人ばかりが集められているように思える。
しかし、そんな中にあって失望しないでおられたのは、私たちの主は、最後の敵である死を打ち破って甦られたからです。パウロはこのお方に信頼していたのです。
「キリストが」崇められる
私たちはイエスを甦らせた神によって勝つこと以外に、自分の力で勝つことなどできません。この主イエス・キリストが崇められる事こそが、本当に大切なことです。
この手紙を書いた使徒パウロは、自分が『奴隷』であり、『キリストはいつも自分の主人である』と考えていました。私はキリストの恵みに隠され、キリストが崇められることを願うことこそ、私たちの生きる道です。
「いつものように今も」
パウロも様々な困難やつまずきの中で、キリストの恵みによって生かされる経験をしてきたでしょう。だから「いつものように、この獄中にある今も」と言えたのです。私たちもまた、今の暗い状況・大変な中でも、自分が何をしたら良いのかということが明らかになって来ます。
わたしの「身によって」
ここで「身」とは「からだ」のことです。宣教地であろうと、獄中であろうと、法廷における弁明であろうと、否、生活全体をもって……。それは抽象論ではなく、極めて具体的なことでした。
「わたしの」身によって
どうしたらキリストが崇められるか。それは一様ではありません。どうしたら、私がキリストの恵みに生きることになるのか、考えてみましょう。
「大胆に」
自分を頼りにするのではなく、キリストの恵みに信頼する生き方は私たちを大胆にします。そして自分がキリストに生かされることによって、真にキリストが崇められることになるのです。
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