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遠い十字架
ルカ23章44−49節
丸山 峰子 師
すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠い所に立って、これらのことを見ていた。(49)
主イエスの十字架を記すルカ23章の中にはいくつかの「見る」という言葉が出てきます。人々は「見る」ことによっていろいろなものを「受け取っていた」ことを、わたしたちは知りたいと思います。
ふたりの罪人は、イエス様と共に十字架につけられ、誰よりもそば近くでイエス様を「見て」いました。イエス様のそばで共に死の苦しみを味わい、イエス様を見つめているそのとき、彼は隣の十字架につけられているこの人が「何も悪いことをしたのではない」ことを知り、そして死の向こう側に御国があることを知りました。
イエス様の処刑の任を負っていた百卒長もまたイエス様を「見た」ひとりでした。彼もまた、「父」の名を呼び息を引き取ったイエス様の姿のうちに、生きて働かれている神様の力を感じ取ったのかもしれません。マタイは彼が「まことに、この人は神の子であった」と言ったと記しています。
そして、この光景を「見に」集まってきた群衆も、これらの出来事を「見て」みな胸を打ちながら帰って行ったのでした。これらのことを「見た」人々はみな、ヘロデが望んでいたようなイエス様の奇跡を「見た」わけではありません。むしろそのようなものは「見なかった」。しかし、彼らは主イエスの十字架とそこで行われていた出来事を「見る」ことによってイエス様が誰であるのかを思い巡らすように変えられていったのです。
そして、これらのすべての出来事を遠い所に立って、見ていた人たちがいました。それは「すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たち」。彼らは、目の前で起こっていることの意味を必死に考えていたことと思います。ですから彼らの口からは言葉が出て来ないのです。ただ一つ言えることは、彼らは神様のなさる御業の証人であったということです。
私たちは信仰の人生において、何度もイエス様の十字架に出会うことがあるのだと思います。そしてその度ごとに、イエス様の十字架の意味、イエス様の私たちを愛する愛の深さを知ることが出来るようにしていただく。そして、イエスを「見た」人の心には確かに「何か」が残るのです。
この日の出来事、この日イエス様を「見た」人々がやがてイエス様を信じる数千人の人々へと変えられていく。十字架のこの日、イエス様の足もとではすでに、確かに奇跡が起こり始めていました。それはイエス様を「見る」ことから始まったのです。
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