キリストが伝えられる
ピリピ1章15〜18節
見えからであるにしても、真実からであるにしても、要するに、伝えられているのはキリストなのだから、わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう。(18)
教会の使命は、福音宣教である。15節〜18節を見ると、ちょっと残念なことが書かれている。獄中にいるパウロに、更に悩みを加えようとして、ケチをつけ、悪口を言う者がいた。しかもそれは、教会の中で起った。彼らは「妬み、闘争心、純真な心ではなく、党派心、見栄」というような態度で、キリストを宣べ伝えていた。
彼らの心の中には、普通考えるような、福音を宣べ伝えるのに相応しい人は独りもいないように思われる。神が選ばれる人は、ただ主イエス・キリストによってその罪を赦され、救われた者である。だから彼らは「自分のような者でも救われたのだから」と言って、キリストの福音を宣べ伝える。彼らは伝道しているのではなく、伝道させられていた。それは、その人が出来るからではなく、その人がキリストによって救われたことをただ一つの拠り所として、伝えているのである。
宣べ伝える動機
それは、「キリストによる救い」である。「立てられている」とは「置かれている」ということである。「わたしは福音を弁明するために、今この獄中に置かれている」が、ある時には人前に、ある時には家の中に置かれているかもしれない。そして、「置く」のは神である。その事を信じていたのである。
反対者でない者たちは「善意、愛の心、真実」で福音を宣べ伝えていると言う。この「善意」とはルカ2:24の「御心にかなう」という言葉で、「神に喜ばれる者」「神の善意を受けた者」という事である。神の善意を受け、自分も神の善意を持つようになったのだ。
宣べ伝える内容
それは言うまでもなく「キリスト」ご自身である。パウロも周りには、意地悪な、自分をもっと苦しめようとする者がおり、それでいて伝道者であるというような事があった。しかし、結局はキリストを宣べ伝えていたのだ。
ここでパウロは、この人たちの弱さ・良いところ・強さなどを考えて、「善意からであるにせよ、悪意からであるにせよ、彼らはキリストを伝えているのだから、自分は喜ぶのだ」と言う。彼らはいずれも、等しく神の恵みによって動かされているのである。
では「キリストを伝える」という事は、どういうことか。それは『福音』を伝えることである。罪を犯して、神から離れ、神のかたちを失ってしまった私たちのために救い主が来てくださった。そのお方によって罪赦され、いのちを与えられ、神のかたちを回復させていただくという神の救いの恵みを宣言することなのである。
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