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マタイ 24章1〜2節     2012年3月23日

よく言っておく。その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう。(2)

 主イエスの時代のエルサレムの神殿は「ヘロデの神殿」と言われるもので、イエスの誕生当時、ローマの委託を受けてイスラエルを治めていたヘロデ大王が建て始めたもので、大きな切石をもって作られた城壁や、朝日や夕日に輝く神殿はそれはそれは美しかったとされています。そしてヘロデ大王の時代から四六年たってもまだ完成していないというほどの大工事でした。ガリラヤ出身の弟子たちはその建物を見て圧倒され、主イエスに注意を喚起します。
 けれども主イエスご自身はその神殿の豪華さには全く興味がありませんでした。主は天地を造られたお方です。どんな人間の作った建造物も、神の創造された自然の壮大さ、美しさに届くことは決してないでしょう。それだけではありません。主イエスは、その見事な神殿が数十年後には徹底的に破壊されてしまうことも知っておられました。目に見えるものは決して永遠には続きません。それがどんなに大きく見事なものであっても、目に見えるものは変わっていくのです。

マタイ 24章3〜14節     2012年3月24日

そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。(14)

 弟子たちは主イエスの語られた言葉が気になってしかたがなかったのでしょう。いつそんなことが起こるのでしょう、また世の終わりにはどのような前兆があるでしょうか、と問いかけます。この二五章の主イエスの答えには、エルサレム陥落時と世の終わりのことが含まれています。
 主イエスは世の終わりの前兆について語られます。偽キリストの出現、戦争とそのうわさ、民族紛争、ききん、地震、迫害、偽預言者、愛の欠如・・・これらの多くの悲惨な前兆は今もすでに起こっていることです。
 けれども同時に、主イエスは世の終わりの前に、御国の福音が全世界に宣べ伝えられると語られました。海外宣教のムーブメントなどもまさに、この主イエスのお言葉に応える形で始まり進んでいきました。多くの宣教師たちが命がけで日本にも来て福音を伝えてくれました。そして今や世界中でテレビや、ラジオ、インターネットなどを通じて福音が届けられるようになりました。私たちはなおも福音を伝えて行きたいと思います。

マタイ 24章15〜22節     2012年3月25日

もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。(22)

 この「荒らす憎むべき者が聖なる場所に立つ」時ということで言われているのは紀元七〇年に起こったローマ軍の攻撃によるエルサレム陥落の時のことと言われています。この時に、エルサレムの神殿はその城壁も含めて完全に破壊されてしまいます。主イエスが語っておられた通りの事が、イエスの時から四十年後には実現したのです。そして、その直前にエドム人たちが神殿に入って神殿を汚し、殺戮が始まったということをその時代に生きた歴史家ヨセフスが記録しています。
 大きな患難が起きようとしていました。しかし、そのような中にあっても主のあわれみは注がれていて、選ばれた者たちのために、患難の期間が縮められるというのです。
 主イエスの再臨に先立っても数々の患難があることでしょう。けれども、主の憐れみや守りは、様々な困難・苦難の中にあっても注がれていることを知りたいと思います。

マタイ 24章23〜28節     2012年3月26日

にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。(24)

 偽預言者や偽キリストについて語られています。主イエスが再臨される時には、その時は突然起こる。だから、預言者だ、キリストだという人がいても、だまされてはいけない、踊らされてはいけないというのです。
 それらの預言者やキリストと自称する人たちは、しるしと奇跡とを行って、人々を説得しだまそうとします。私たちは誰かが不思議な事を行ったとしても、また様々な奇跡やしるしを見せられたとしても、そして多くの人たちがそのような偽物にだまされてついていったとしても、それをもってその人を信用してはいけません。
 その人が、イエスを主と告白し、聖書だけを信じて歩むかどうかが本物と偽物を見分ける大ききな鍵になります。主イエスに対する信仰以外の救いを示したり、十字架にかかり死んで、よみがえられた主以外に、自分に対する信仰や服従を求める人に対しては私たちはいつも警戒していなければなりません。

マタイ 24章29〜31節     2012年3月27日

そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。(30)

 患難、日が暗くなり、月は光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされる・・・変わらないと思っていることが次々に変わって行く。けれども、そのような中で、主イエスは天の雲に乗って再び来られます。これを再臨と言います。それは霊的で精神的な事柄ではありません。人々はそれを目で見るのです。
 その時は、神に背き、神が提供しておられる救いを拒み続けている人にとっては嘆きと絶望のときです。しかし、主を信じ、主の恵みとその救いにすがって歩む人にとっては喜びと勝利の日です。
 主イエスを信じて歩む者は、この世にあって無力で、少数者で、愚かに見えるかもしれません。けれども、私たちの信じる主は、やがて力と栄光をもって来られます。確かに主イエスは十字架に向かおうとしておられました。そこにあったのは惨めな「救い主」の姿であり、あまりにもむごたらしい死がそこにはありました。しかし、その同じ主が栄光と権威をもって来られるのです。

マタイ 24章32〜44節     2012年3月28日

だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。(44)

 主イエスが再び来られるというのはいつのことなのでしょうか。それはいつ起こるのでしょうか。主イエスはそれにはしるしがあるとおっしゃいます。ここまで読んできた、様々な天変地異や災害、迫害や患難、人々の罪や偽キリスト、福音の宣教の進展などです。けれでも具体的な日時については、「天の御使たちも、また人の子も知らない」と言われます。ですから、主イエスの再臨の年月日を予測したり、預言したりするということは全く愚かなことです。多くの異端は日時の特定をしてきましたが、主はその日は分からない、とおっしゃるのです。
 ただ日時がわからないということはそれが不確かだということではありません。必ずそのことは起こるのです。もう一つ、その時を示す大きなしるしがあります。それは人々は、しばらくは主イエスは来られないとたかをくくっている、そのような時に主は来られるということです。私たちは主イエスが来られることは信じていても、たいがい、今日・今週ではないだろうと思っています。けれどもそのような時に主は来られるのです。

マタイ 24章45〜51節     2012年3月29日

主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。(45)

 主人が僕たちを家に残し、家の管理をまかせて旅に出て、その一人を責任者に立てるという時に、主人が期待していることは、主人がそこにいてもいなくても、見られていてもいなくても、その僕が忠実に、まかされたことを行い、自分の願っていることを果たしていてくれるということです。私たちはいつ主人が帰って来るかと、びくびくしながら生きるのではありません。「時に応じて食物をそなえる」というのは決して大きな事ではないでしょう。それはかえって小さな毎日の積み重ねとも言えます。けれども主人は、自分がいつ帰っても、その僕がコツコツと忠実に生きているのを見たいのです。主人が期待しているのは、自分の僕が忠実で、かつ思慮深いということです。
 主が再び来られる日が近づいています。誰か特別な人のことではありません。あなたが、私が、主に従って今日も忠実な歩みをしていくことを主は期待し、喜んでくださるのです。


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