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マタイ 20章1〜16節     2012年3月1日

わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。(14)

 「五時から雇われた人」と言われるたとえ話です。ぶどうの収穫の時期は一年の中でも最も忙しい季節です。短期間で一気にぶどうを収穫し、酒ぶねで踏み、貯蔵庫に入れなければなりません。たくさんの人手を必要とするという中で主人は夜が明けると共に、労働者たちを雇い、一日一デナリの約束をします。この1デナリという給料は決して悪い金額ではなかったはずです。主人は九時・一二時・三時と人を雇います。ところが日も暮れかかった五時に市場に行くと、まだ人がいたので、彼らに「なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか」と問いかけます。ある意味、この忙しい季節に、仕事をしないで一日が終わる、というのは彼らの側にも問題があったかもしれません。けれども彼らもぶどう園に招かれます。そして、一日の終わりに、彼らもまた一デナリを受け取ったのでした。朝から働いていた人たちは文句を言います。ある意味、彼らの言い分ももっともに聞こえます。このたとえを理解する鍵は、自分が五時からの男の一人であることを認めることです。すると恵みが輝き出て来ます。こんなありがたい話はないと分かってくるのです。  

マタイ 20章17〜19節     2012年3月2日

見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、・・・彼らは彼に死刑を宣告し、そして彼をあざけり、むち打ち、十字架につけさせるために、異邦人に引きわたすであろう。そして彼は三日目によみがえるであろう。(18〜19)

 前のたとえで語られたのは、天国に入るのは、一方的な神の恵みと憐れみによるのだということです。そしてその神の恵みによる救いを与えるために、主イエスはエルサレムに上ろうとしておられました。弟子たちは、ついに主イエスがメシヤとして、王位に就く時が近づいたと興奮していました。けれども主イエスは、はっきりとそれを否定されます。
 主イエスがエルサレムに上るのは、人々の賞賛を受けるためではなく、あざけられ、むち打たれ、辱められて、十字架につけられて死ぬためでした。主イエスがご自分の受難について語られたのはこれが最初ではありません。マタイによる福音書の中でも三回目です。けれども、弟子たちはそれを理解することができませんでした。まさに主イエスは私たちの罪を負って死ぬことによって、私たちのために救いの道を開こうとしておられたのです。そして、十字架を理解できなかった弟子たちは、主イエスの語られた復活も信じることができませんでした。

マタイ 20章20〜28節     2012年3月3日

あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるため・・・であるのと、ちょうど同じである。(27〜28)

 主イエスがエルサレムに上られるという中で、主が王位に就くのだということしか考えられない弟子たちは、十二人の序列をはっきりさせておきたいと願ったのかもしれません。ゼベダイの子ヨハネとヤコブは十二人の中でも、主イエスに特別扱いをされていた三人の中の二人でした。母親が出て来て、彼らと共にイエスの前にひざまづいて、右大臣・左大臣のポストをほしいと願い出るのです。
 他の十人は憤慨しますが、それは他の弟子たちも皆、同じように思っていたからです。けれども主イエスは弟子たちを呼び寄せて、偉くなりたいと思ったら、仕える人・僕になりなさいとおっしゃいました。神の子なる主イエスご自身もしもべとしての生涯を全うし、私たちのために命までも与えるほどに、仕えることに徹してくださいました。そして、私たちもまた、この主イエスの足跡に踏み従う歩みに招かれているのです。

マタイ 20章29〜34節     2012年3月4日

彼らはますます叫びつづけて言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。イエスは立ちどまり、彼らを呼んで言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。(31〜32)

 金持ちも天国には入れない、お金では天国は買えない。天国は恵みと憐れみによって入るのだと、私たちは聖書で学んできました。そしてこのところには神の恵みをいただいた二人の盲人のことが書かれています。彼らは主イエスが通られるということを聞いた時、「私たちをあわれんでください」と叫び続けます。叫び続けて止めないのです。イエスは立ち止まり、彼らを呼んで、「私に何をしてほしいのか」と尋ねられます。
 彼らの答えは「主よ、目を開けていただくことです」というものでした。彼らは何も遠慮しませんでした。また、主イエスが癒すことができる、またいやしてくださると、大胆に信じて疑いません。私たちは何を期待し、何を求めているでしょうか。イエスはそんな彼らを憐れんで、その目を開いてくださいました。そして彼らはイエスに従って行ったのでした。
 主イエスは答えてくださいます。そして、主の恵みにあずかった私たちは喜びをもって主に従って行くのです。


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