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ヨハネ 1章1〜5節     2013年1月1日

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(1)

 初めに言葉があった・・・とヨハネはその福音書を書き始めます。ヨハネがこの福音書を書いたのは一世紀末。すでにヨハネはとても高齢になっており、また他の弟子たちをはじめ、第一世代のキリスト者たちはほとんどが地上の生涯を終え、主イエスに会い、その声を聞いたことのある世代は残り少なくなってきていました。教会では第三世代のキリスト者たちがリーダーシップをとるようになり、第四世代も育ってきている・・・そういう時代です。すでに共観福音書と言われるマタイ、マルコ、ルカによる福音書は教会でも広く読まれていたことでしょう。けれども、ヨハネはなお自分の知っている主イエスのことを他の弟子たちとは違った角度で書いてみたいと思ったのでしょう。そしてそのことが、外には迫害、内には異端との戦いにさらされている教会に大きな助けになったに違いありません。
 ここで「言」とヨハネが言ったのはイエス・キリストのことです。創世記一章と同じように、「初めに言」とヨハネは書き出すのです。

ヨハネ 1章6〜8節     2013年1月2日

この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。(7)

 最初に神と共におられて、神であられ、すべての創造者であり、命を与え、闇を照らす光である主イエス・・・この1〜5節のテーマがヨハネによる福音書(以下「ヨハネ伝」)全体において展開されていると言ってもよいでしょう。
 ヨハネは続いて、6節からのところで、神から遣わされた人であるバプテスマのヨハネについて語り出します。このバプテスマのヨハネは、光自身ではありませんでした。非常に人気があり、人々の注目を浴びた人物でしたが、自分の分、自分が今生かされている使命についてきちんと自覚をしていました。彼は、光である主イエスについて証しをするために来たのです。
 私たちは何のために今、ここに遣わされているのでしょうか。それは光として来てくださった主イエスについて証言するためです。そして、私たちの証し、私たちの主イエスと共なる歩みを通して一人でも多くの人たちが光である主イエスを知り、このお方を信じるためなのです。

ヨハネ 1章9〜13節     2013年1月3日

しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。(12)

 この救い主イエスは特別な人たちだけでなく、すべての人を照らすために来てくださいました。ところが主イエスが来てくださったのに、人々は主イエスを受け入れませんでした。かえって主イエスを拒み、主イエスを十字架につけて殺してしまったのです。創造者なるお方が、なされるがままに悲惨な死を遂げる・・・しかし、それは神の深いご計画の中にあることでした。主イエスは私たちの罪を負って十字架で死に、私たちのために救いの道を開いてくださったのです。
 そして、この光として来られ、人々から拒まれ捨てられた主イエスを受け入れ、その名を信じた人々には、驚くことに神の子となる力が与えられます。罪が赦されて天国に入ることができるようになるというだけではありません。「神の子」としていただく。私たちは、神によって、神の子として新しく生まれるのです。それは私たちの努力や修養によって起こることではありません。まさに神がそのことを私たちのためにしてくださるのです。

ヨハネ 1章14〜18節     2013年1月4日

わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。(16)

 ヨハネが主イエスのことを「言」(ギリシャ語では「ロゴス」)と言ったのには大きな意味があり、知恵があります。「神」という言葉はギリシャ語ではギリシャ神話の神々を連想させるものだったのです。それに対してロゴスとは、物事の原理原則、目に見える世界を越えた本質的なものを指す言葉でした。その意味では霊であり、絶対者である神を表すのによりふさわしいと考えたのでしょう。けれどもそのロゴスなる神が、肉体をとって、私たちの内に住んでくださった、それがイエス・キリストなのです。
 私たちは神を見ることはできません。けれども、主イエスはその見えない神を見せてくださいました。そしてこのお方は栄光と、恵みとまことに満ちておられました。私たちはこの主イエスを通して、神の満ち満ちている恵みに触れ、恵みに恵みを加えられます。神の恵みはいつも豊かで、求める者にこのお方を通してさらに豊かに与えられるのです。

ヨハネ 1章19〜28節     2013年1月5日

彼は言った、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」。(23)

 バプテスマのヨハネはヨルダン川に近い荒野で活動していました。そのような寂しい所にも方々の町々村々から大勢の人たちが集まって来て、ヨハネのメッセージを聞きました。ヨハネのメッセージは決して耳ざわりのよい、ソフトなメッセージではありませんでした。旧約聖書の時代から待ち望んでいた救い主がついに来られるから、悔い改めて、その生き方を変えるようにというメッセージだったのです。にも関わらず、人々がぞくぞくと集まって来たことに、人々がどれだけメシヤを待ち望んでいたかがうかがわれます。
 人々がヨハネのもとに集まっているという噂を聞いて、エルサレムから祭司やレビ人たちが派遣されてきます。ヨハネは彼らに自分はキリストではない、預言者イザヤが言った「荒野で呼ばわる者の声」だと言いました。自分に価値があるのではなく、自分が紹介するお方に価値があるのだと告白したのです。

ヨハネ 1章29〜34節     2013年1月6日

その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊・・・」。(29)

 ヨハネは自分のもとに来る多くの人たちにバプテスマを授けていました。それは罪の悔い改めてのバプテスマでした。元々は旧約聖書の洗い・きよめの儀式とのつながりの中で生まれてきたのだと言われています。ところがある日、ヨハネが自分のもとに来た主イエスにバプテスマを授けた時、御霊がはとのように天から主イエスの上に下られるのを見たのです。
 ヨハネはその時に、この主イエスが特別なお方であることを知ったのでした。ヨハネは神からその方が、御霊によってバプテスマを授ける方だということを悟りました。まさにそのお方を通し、そのお方につくことによって、私たちは罪が赦され、御霊によって新しく神の子として生まれ、神に生きる者へと変えられるのです。
 ヨハネはそのことを知って、主イエスのことを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。まさに主イエスは自ら、私たちの罪の身代わりに死ぬ神の小羊となって、私たちをあがなってくださったのです。

ヨハネ 1章35〜42節     2013年1月7日

彼はまず自分の兄弟シモンに出会って言った、「わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った」。(41)

 バプテスマのヨハネは次の日、二人の弟子とたちと一緒にいました。ひとりはアンデレ、もう一人はこの福音書を書いたヨハネだっただろうと言われています。バプテスマのヨハネは主イエスが通られるのを見て、「見よ、神の小羊」と言います。バプテスマのヨハネの弟子だった二人は、主イエスについていきました。そしてこの二人はその夜は主イエスと一緒に泊まったのでした。彼らは、この主イエスとの出会いによって、イエスが特別なお方、メシヤ(キリスト)であることを知りました。
 アンデレはすぐに自分の兄弟シモンに会います。そして彼に「私たちはメシヤに出会った」と言って、ペテロをイエスのところに連れてきたのでした。主イエスは彼に目をとめて、彼にケパ(岩)という名前を与え、ご自分の弟子にされました。
 バプテスマのヨハネがアンデレともう一人に主イエスを紹介し、アンデレが今度は自分の兄弟ペテロに主イエスを紹介しました。私たちにも誰かがイエスさまを紹介してくれたはずです。それでは、今度は私は誰に主イエスを紹介すればよいでしょうか。

ヨハネ 1章43〜51節     2013年1月8日

また言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。(51)

 主イエスは次にアンデレやペテロと同じ町ベツサイダの人ピリポに出会われます。そして主イエスはこのピリポも弟子として招かれました。ピリポは自分の知人であったナタナエルに主イエスのことを紹介します。この時点で、ピリポは主イエスのことを旧約聖書に約束されたメシヤだと語ります。しかし、ナタナエルはまるで信じようとしません。ピリポは無理矢理のようにナタナエルを主イエスの所に連れて行くのですが、主イエスがナタナエルのことを知っておられたのを見た時に、ナタナエルも主イエスのことをメシヤだと確信したのでした。
 ナタナエルの人となり、また彼が一人でどこにいたかをずばりと言い当てられたのに驚いたこともあるでしょう。けれども主イエスは彼が信じ従う時にこれからもっと大きな事を見る、と約束されます。ちょうど創世記二八章でヤコブが石を枕に寝ていた時に見た幻のように、天と地がつながれる、そしてそのはしごは主イエスなのです。ナタナエルは、まさに天と地を繋ぐお方として主イエスを見ることになります。


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