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ヨハネ 12章1〜11節     2013年2月27日

その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。(3)

 主イエスは十字架を前にして再びベタニヤを訪ねられました。主イエスのために夕食の準備がされ、ラザロもその席に加わっていました。死人の中からよみがえったラザロの噂も広まっている中で、大勢の人たちが、イエスを、またラザロを見ようと集まって来ました。
 そこにマリヤが高価で純粋なナルドの香油一斤(三百グラムほど)を持ってきて、イエスの足に塗り、自分の髪の毛でそれを拭いたのでした。イスカリオテのユダは無駄だ、もったいない、と思いました。その香油は男性の一年分の給料にも相当するような金額だったからです。貧しい人たちに施しができたのに・・・そう言うユダはイエスさまの事も、貧しい人たちのことも考えていませんでした。
 主イエスはマリヤの行為を喜び、葬りの準備のためと受け入れられました。マリヤがどれだけ、主イエスを理解できていたかは分かりません。しかし、マリヤは主イエスのために精一杯をささげたのです。

ヨハネ 12章12〜19節     2013年2月28日

イエスは、ろばの子を見つけて、その上に乗られた。それは「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、あなたの王がろばの子に乗っておいでになる」と書いてあるとおりであった。(14〜15)

 「その翌日」とは受難週の日曜日のことです。主イエスはろばの子に乗り、人々がしゅろの枝を手にとって、ホサナとの叫びの中、エルサレムの神殿の東側の門から入っていかれました。ホサナとは「今、救ってください」という意味のヘブル語です。「主の御名によって来る者」「イスラエルの王」という言葉で、人々は主イエスを旧約聖書に約束されていた救い主として喜び迎えたのでした。ただ、弟子たちも含めて人々が期待していたのは、ローマ帝国の支配を打ち破って政治的な独立をもたらし、豊かさと繁栄を与えてくれる地上的な指導者でした。しかし、主はそのような救い主ではありませんでした。
 主イエスはろばの子に乗られます。およそ王にふさわしいとは言えず、滑稽でさえあります。主イエスは確かに王でした。しかし、主イエスは柔和なお方、平和をもたらすお方でした。そして、それは確かに旧約聖書の成就でした。けれども、弟子たちがそのことを理解できるようになるのはまだ後のことになります。

ヨハネ 12章20〜36節     2013年3月1日

よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(24)

 この年の過越の祭に数人のギリシャ人たちが礼拝のためにエルサレムにやって来ていました。このギリシャ人たちはユダヤ教に改宗してこの祭に来ていたのでしょう。彼らのところにも主イエスのニュースは届いていたのかもしれません。彼らはピリポに仲介を頼んで主イエスと会いたいと申し出ます。主イエスが世界に働きを広げるチャンスにも思えます。ユダヤ人は拒んでもギリシャ人は受け入れるかもしれません。
 しかし、このことを聞いた主イエスは時が来たことを自覚されます。それは栄光を受ける時、十字架で贖いを全うする時です。まさに主イエスは一粒の麦としてご自身の命を与えようとしておられました。けれども、それは主イエスだけではありません。私たちもまた、自分の命を救おう、守ろうとしていると、それを失ってしまうことになります。しかし、地に落ちて死ぬなら、豊かに実を結びます。それは命を大事にしないということではありません。自分を守ることが優先順位の一番上に来ていると、その大事な命さえも失いかねないというのです。

ヨハネ 12章36〜43節     2013年3月2日

しかし、役人たちの中にも、イエスを信じた者が多かったが、パリサイ人をはばかって、告白はしなかった。会堂から追い出されるのを恐れていたのである。彼らは神のほまれよりも、人のほまれを好んだからである。(42 〜43)

 人々は主イエスの言葉を聞き、その御業を見ました。何の前提条件もなしに、そのまま主イエスの教えを聞き、またそのしるしを見たら、主イエスが神の子であり、救い主であることは否定のできない事実です。けれども、人々は主イエスを信じることができませんでした。ヨハネはイザヤ書の言葉を引用しながら、このこと自身もまた、旧約聖書に予告されていた通りだったと語ります。
 実際には、主イエスを信じる人々もいたのです。しかも、政治の比較的中枢に近いところにも、主イエスを救い主と考える人々がいたのでした。しかし、彼らの多くは宗教指導者たちを恐れて、自分の信仰を告白することはありませんでした。確かに主イエスを救い主と告白すると会堂から追い出され、また仕事も失うかもしれません。決してそれはやさしいことではなかったでしょう。しかし、ヨハネは、「彼らは神のほまれよりも、人のほまれを好んだ」と言います。私たちは人の目と、神の目、どちらをより意識するのでしょうか。

ヨハネ 12章44〜50節     2013年3月3日

イエスは大声で言われた、「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしをつかわされたかたを信じるのであり、また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである。(44 〜45)

 主イエスは決して隠れて何かをしておられたのではありません。ここでも、「大声で言われた」と書かれています。主は十字架を前にして大声で語られます。それは自分は自分で来たのではなく、自分をつかわされた方がいる。そして自分を見る者は自分をつかわされた神を見るのであり、自分を信じる者は神を信じるのだというのです。まさに、主イエスは人となってこの世に来てくださり、神の言葉を私たちに語り、私たちに見えない神を見せてくださったのです。
 私たちは、このお方を信じなかったら、ずっとやみの中にいます。このお方を信じなかったら、さばきの下に置かれているのです。
 しかし、主イエスは、自分を信じる者はやみの中にとどまることがない、とおっしゃいます。このお方を信じる時に、私たちはさばかれることなく、永遠の命を与えられます。主イエスはそのために来てくださったのです。


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