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ヨハネ 20章1〜10節     2013年4月5日

シモン・ペテロも続いてきて、墓の中にはいった。彼は亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった。(7〜8)

 マグダラのマリヤは日曜日の朝、まだ暗いうちに主イエスの墓にやって来ました。ところが墓の入り口に置かれ、封印が押されていた大きな石がとりのけられ、墓の中は空っぽになっていました。マリヤは気が動転し、急いで、ペテロたちのところに行って、このことを知らせます。ペテロと、イエスの愛しておられた弟子(おそらく、この福音書を書いているヨハネ)は主イエスの墓に走り、墓の中から主イエスの遺体がなくなっていることを確認します。主イエスの体をまいていた布と、頭に巻かれていた布は離れたところに置かれており、また頭に巻かれていた布はまるで頭がすっぽり抜けてしまったようにまるめたままでした。
 弟子たちはまだ主イエスがよみがえられたのだということに思いが行っていません。けれども、この空っぽになった墓こそ、主イエスが死を打ち破って、よみがえってくださったことを示す力強いしるしなのです。

ヨハネ 20章11〜18節     2013年4月6日

イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。(15)

 弟子たちは家に帰って行きましたが、マリヤは外に立って泣いていました。彼女もまだ主イエスがよみがえられたとは思っていません。ただ主イエスの遺体がなくなってしまったことを悲しんでいたのです。彼女はもう一度墓の中をよく見てみようと思います。そしてそこに白い衣を着た二人の御使いがいるのを見ます。彼らはマリヤに尋ねます。「女よ、なぜ泣いているのか」。マリヤ主イエスの遺体がなくなってしまったのだと訴えますが、その時、自分のうしろに誰かが立っているのに気づきます。それは主イエスでした。主イエスは彼女に尋ねます。「女よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか」。でもまだマリヤはそこにおられる方が主イエスであることが分かりません。きっと墓地の番人か何かだと思い、ひょっとしたら、この人が知っているかも・・・と思います。もし知っていたら教えてほしい、訴えるマリヤに、主イエスは「マリヤよ」と声をかけられたのでした。もう泣く必要はありません。主はすでに死を打ち破ってよみがえってくださったからです。

ヨハネ 20章19〜23節     2013年4月7日

イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ・・・」。(21〜22)

 主イエスがよみがえられた日の夕方、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、戸を全部閉めて、息をひそめていました。けれども、そこに主イエスが立って、弟子たちに、「安かれ」と声をかけられます。おそらく、ヘブル語で「シャローム」と声をかけられたのででしょう。戸を閉じた部屋の中に突然現れるというのは、私たちは復活後の主イエスはいわゆる「霊的」存在だったのではないか、と思いたくなります。確かに、復活前の体と違う側面があることも確かなのですが、主イエスご自身は、自分は単なる霊的な存在ではなく、肉や骨もある、とおっしゃっています(ルカ二四39)。そして、弟子たちは、主を見て心から喜びに満たされたのでした。
 主は弟子たちに対して、自分はあなたがたを遣わすとおっしゃり、弟子たちに息を吹きかけて、聖霊を受けよ、と語られたのでした。そして、私たちもまた主イエスに命を与えられて遣わされていくのです。

ヨハネ 20章24〜31節     2013年4月8日

信じない者にならないで、信じる者になりなさい。(27)

 主イエスがよみがえられて、弟子たちの前にご自身をあらわされたその日に、そこに弟子のトマスはいませんでした。トマスは他の弟子たちが興奮気味に、自分たちは主にお目にかかった、と言っても、冷めた目で見ていました。そんなことがあり得ようはずがない。きっと夢か霊でも見ていたのだ。自分はその釘の跡に指を差し入れ、わきのやりの跡に手を入れてみなければ絶対に信じない、そう言うのでした。
 けれども、主はそんなトマスにもご自身をあらわしてくださいました。主はトマスの言葉をちゃんと聞いておられたのです。主は、トマスに自分の手を見せて、信じない者にならないで、信じる者になりなさい、とおっしゃいました。トマスは「わが主よ、わが神よ」と言います。トマスはここで、主イエスを「わが神」と告白し、主イエスもその告白を受け入れられました。そして、見ないで信じる者はさいわいだ、とおっしゃいます。しるしがあるから、不思議が起こったからではありません。何がなかったとしても、主イエスのお言葉を信じ、受け入れて歩む者でありたいと思います。



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