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ヨハネ 21章1〜8節     2013年4月9日

夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。(4〜5)

 マタイやマルコの福音書を読むと、主イエスご自身が弟子たちにガリラヤに行くようにと指示を出しておられることが分かります。そこで弟子たちは主イエスと会うことになっていました。ガリラヤに戻り、ガリラヤ湖を前にしたペテロは無性に漁がしたくなったのでした。ある意味、これはペテロがこの先、主イエスの弟子として生きていくかどうかの瀬戸際だったと思います。他の弟子たちにとってもおそらく同じだったことでしょう。
 しかし、その夜、彼らは魚一匹取ることができませんでした。そんな時、主イエスが岸に立って、彼らを見つめておられました。そして、彼らに声をかけられます。「子たちよ、何か食べるものがあるか」。この問いかけは直訳すると、「何も食べる物がないんだろう?」という問いです。彼らはそれを認めるしかありませんでした。主は、私たちのことも見つめていて下さいます。そして、私たちの無力も知り尽くしながらも、そんな私たちに大漁を与えることがおできになる方なのです。 

ヨハネ 21章9〜14節     2013年4月10日

彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。(9)

 ペテロはガリラヤ湖に飛び込んでイエスさまのところに来たのですが、他の弟子たちは網を引きながら陸に戻ってきます。網の中は一五三匹の大きな魚でいっぱいでした。網が裂けないのが不思議なくらいです。
 彼らが陸に上がってきた時、すでに岸には炭火が起こされていて、パンと魚が用意されていました。主イエスは疲れて帰って来る弟子たちのために、ちゃんと用意をして下さっていました。
 弟子たちはその方が主イエスであることがよく分かっていました。魚が捕れなかったのに、イエスさまの言われるとおりにしたら大漁であったことは、ペテロたちが主イエスの弟子になった時にもあったことでした。その時に、主イエスは「あなたがたは人間をとる漁師になるのだ」(ルカ五10)とおっしゃったのでした。
 朝ご飯を用意してくださるその姿もとてもイエスさまらしいものでしたし、またパンと魚を与えてくださるその姿は、五千人の給食の奇跡を思い起こさせたことでしょう。主は私たちを豊かにもてなしてくださるお方なのです。  

ヨハネ 21章15〜17節     2013年4月11日

イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。(15)

 食事が終わった時、主イエスはシモン・ペテロを一人呼び出して問いかけられます。「あなたはこの人達が愛する以上に、私を愛するか」。以前のペテロでしたら、自信をもって、「もちろんです!」と答えたことでしょう。しかし、この時には「主よ、そうです」とお答えするのが精一杯でした。主イエスはそんなペテロに「わたしの小羊を養いなさい」と語られます。主イエスは三回同じやりとりを繰り返されます。三度目にはペテロも悲しくなります。それは自分が三度主イエスのことを否んでしまったことを思い起こす事になったからでしょう。しかし、同時にそれは、あなたの三度の否認も、わたしは分かっている、さあ、もう一度やり直そう、という主イエスからの赦しと再召命の呼びかけでもあっただろうと思います。
 主は、私たちにも愛を求められます。誰よりも大きな愛で、そして何よりも大きな愛を主イエスに注ぐことを主は私たちにも期待しておられるのです。あなたはどうお答えしますか? 

ヨハネ 21章18〜23節     2013年4月12日

イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。(22)

 主イエスは、愛します、と語るペテロに、主イエスに従う生涯がただ単に、楽しい、苦労のない歩みではないことを語られました。若いうちはそうではないが、歳を重ねる中で、自分の思うとおりに自由に歩むことができなくなる、とペテロが迫害を受けることを示され、殉教者としての生涯が待ち受けていることを予告されたのでした。この福音書が書かれた時にはもうすでにペテロはローマにおいて殉教していたものと考えられています。その上で、主イエスは、私に従って来なさい、とペテロを招かれたのでした。
 ペテロはその時、「イエスの愛しておられた弟子」のことが気になります。この弟子はこの福音書の著者であり、ヨハネのことだと考えられます。私たちも神に従いながらも、他の人たちのことが気になります。あの人はどうなのですか、と聞きたくなります。しかし、主イエスは、人のことは人のこと、「あなたは」わたしに従って来なさい、ともう一度招かれたのでした。

ヨハネ 21章24〜25節     2013年4月13日

これらの事についてあかしをし、またこれらの事を書いたのは、この弟子である。そして彼のあかしが真実であることを、わたしたちは知っている。(24)

 この部分は、ヨハネの福音書に対する付加の部分であり、まとめでもあります。ここで、ペテロが「あの人はどうなのですか」と問いかけた弟子が、この第四福音書の記者なのだと言います。そしてそれがヨハネのことだと言われるのです。それは、ヨハネと同時代、またはヨハネに教えられ、指導された人々が、この福音者はヨハネが書いたのだと聖書外の文献でも語っていることからも、おそらく確かでしょう。
 これは「あかし」であり、真実だと言います。この著者は自分が聞き、見、また経験したことを正直に書き記していったのです。もちろん、起こった出来事をすべて書き記すことは不可能です。その多くの出来事の中で、どの出来事、どの教えを福音書に書き入れるかというところに著者の意図が現れています。
 ヨハネは、この福音書を読む人が主イエスを信じて、罪の赦しと永遠の命を得ることを願って正直にこの福音書を書きました。私たちは自分に与えられた限られた時間と資源を用いて何を語るのでしょうか。 



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