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ヨハネ 15章1〜6節     2013年3月15日

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。(5)

 ぶどうはイスラエルの代表的な産物の一つです。そして、旧約聖書の時代にもしばしば、イスラエルの民自身を表すたとえとしてぶどうが用いられました。神はエジプトで奴隷であったイスラエルを植え替えて、乳と蜜の流れる約束の地に移植してくださいました。主はイスラエルに恵みと祝福を注いで、イスラエルが神の栄光を表すきよい実を豊かに結んでいくことを願っておられました。ところがイスラエルの民は神を拒み、神の喜ばれる実を結ぶことができませんでした。
 そこで、主イエスが「わたしは『まことの』ぶどうの木」とご自身を表されたのです。主イエスはイスラエルの民ができなかったことをその生涯を通して全うされました。そして、このまことのぶどうの木である主イエスにつながる時に、私たちも豊かに実を結ぶことができるようになります。このお方から離れたら、私たちは神の御心の中を歩むことはできないのです。

ヨハネ 15章7〜11節     2013年3月16日

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。(9)

 主イエスにつながっているとはどういうことでしょうか。それは主イエスの御言のうちにとどまっていることです。主イエスの御言が心にとどまるような生き方をするこということです。主イエスの御心を拒み続けていると、だんだん、主イエスの御言が遠くなっていきます。大事なことは、御言を心に刻み、その御言に従って一歩一歩歩み続けることです。
 また主イエスにつながるとは、主イエスの愛の中にとどまるということです。神の愛を受け入れて生きるということです。様々な試練や苦難の中を通る時にも、愛していてくださる主に信頼して歩むのです。主の愛に背を向け、それを拒んで生きるのではなく、愛して下さる主を受け入れ、このお方を愛して生きるのです。
 そして、このつながりというのは、つながったという出発点と共に、つながっているという現在の状態、つながり続けるという日々の継続的な歩みが求められています。

ヨハネ 15章12〜17節     2013年3月18日

もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。(18)

 ヨハネがこの福音書を書いていた一世紀末には教会は何度も非常に厳しい迫害の中を通っていました。その意味でも十字架を前にして主イエスが弟子たちに語られたこの言葉は大きな慰めとして響いたはずです。
 主イエスはまさにその当時の宗教家や政治家たちの手によって葬り去られようとしていました。人々を愛し、どこまでも仕えてきた主イエスが指導者たちに憎まれて死んで行こうとしておられたのです。そして主イエスは、同じことが自分の弟子たちにも、後の教会にも起こるだろうことを知っておられました。
 この世と調子を合わせ、罪の中を歩んでいたら、この世は私たちを自分のものとして受け入れ、愛してくれたことでしょう。しかし、私たちは、神によって召し出され、主イエスのあがないによって買い取られて、神のものとされました。だから世は、主イエスを憎んだように、私たちが主に従って生きようとする時に、私たちをも憎むのです。恐れる必要はありません。そのことは聖書に書かれているとおりであり、神は共にいて私たちを支えてくださるからです。

ヨハネ 15章18〜27節     2013年3月18日

もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。(18)

 ヨハネがこの福音書を書いていた一世紀末には教会は何度も非常に厳しい迫害の中を通っていました。その意味でも十字架を前にして主イエスが弟子たちに語られたこの言葉は大きな慰めとして響いたはずです。
 主イエスはまさにその当時の宗教家や政治家たちの手によって葬り去られようとしていました。人々を愛し、どこまでも仕えてきた主イエスが指導者たちに憎まれて死んで行こうとしておられたのです。そして主イエスは、同じことが自分の弟子たちにも、後の教会にも起こるだろうことを知っておられました。
 この世と調子を合わせ、罪の中を歩んでいたら、この世は私たちを自分のものとして受け入れ、愛してくれたことでしょう。しかし、私たちは、神によって召し出され、主イエスのあがないによって買い取られて、神のものとされました。だから世は、主イエスを憎んだように、私たちが主に従って生きようとする時に、私たちをも憎むのです。恐れる必要はありません。そのことは聖書に書かれているとおりであり、神は共にいて私たちを支えてくださるからです。


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