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マルコ 1章1節     2012年4月22日

神の子イエス・キリストの福音のはじめ。(1)

 この福音書は伝統的に、マルコという人物が書いたとされています。このマルコは若い頃に主イエスに出会い、イエスを知りました。最後の晩餐の部屋、聖霊が下った二階座敷はいずれもこのマルコの実家だっただろうとされています。また、主イエスが捕らえられたとき、後ろから離れてついてきて、つかまえようとしたら裸で逃げた青年・・・というのもこのマルコ、後にパウロと伝道旅行に行って、パウロの怒りをかった人物、初代教会で慰めの子と言われたバルナバのいとこ。そしてこのマルコはペテロからいろいろ聞きながらこの福音書を書いたとされています。このマルコの福音書は四つの福音書の中で一番最初に書かれたものです。
 さて、この福音書は「福音=グッドニュース」を伝えようとしています。そして、このよい知らせは、神の子イエス・キリストに関わることなのです。まさに神の子、救い主なる主イエスは、私たちの福音です。私たちに救いの道がある。こんな罪深い者が罪ゆるされ、神の子とされる道がある。主イエスによってそのことは成就したのだとマルコは言うのです。

マルコ 1章2〜8節     2012年4月23日

彼は宣べ伝えて言った、「わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない・・・」。(7)

マルコは福音を書くにあたって、主イエスの誕生から書き起こすことはしません。彼はバプテスマのヨハネの宣教から始めます。バプテスマのヨハネが主イエスにバプテスマを授け、そこから主イエスの公生涯が始まったからです。
 バプテスマのヨハネの登場は預言者たちによって予告されていました。彼は主イエスに先だって世に現れ、人々に対して、もうすぐ救い主が来られるから準備をするようにと語ります。ヨハネが説いた「準備」は悔い改めると言うことでした。そして救い主を待ち望んでいた多くの人々が、ぞくぞくと荒野まで出て来て、そこで自分の罪を悔い改め、そのしるしとしてバプテスマを受けたのでした(ヨハネのバプテスマと、今、教会でしている洗礼とは少し意味が違います)。ヨハネはまさに時の人でした。けれども彼は決しておごることをしません。彼はただ、謙虚に救い主キリストを指し示すのです。

マルコ 1章9〜11節     2012年4月24日

すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。(10)

 イエスはご自分が育った町ナザレを後にされます。主イエスは、子どもの頃から過ごした町、友人や家族、またずっと使ってきた大工道具もそこに残して、「公生涯」に入っていこうとしておられました。まさに、主イエスはそのためにこの世に来られたからです。
 イエスがまず向かわれたのはヨルダン川でした。そこで悔い改めのバプテスマを授けていたヨハネのもとに行って、彼からバプテスマを受けられたのです。主イエスは神の子、罪のないお方ですから、悔い改めのバプテスマは必要がなかったはずです。しかし、主は罪人と同じ立場に自らを置いてくださったのです。
 天が裂けて聖霊が下ります。もちろん、それまで主イエスの生涯に聖霊が働いておられなかったわけではなかったでしょう。それは主イエスの生涯が新たなステージに入ったということのしるしでした。天からの声がします。これは主イエスが王なるメシヤとして、またしもべなるメシヤとして、旧約聖書に約束されている通りに来られた方であることを指し示す天からの声でした。

マルコ 1章12〜13節     2012年4月25日

それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった。(12)

 イエスの公の生涯が始まろうとしていました。天からの声をかけられて、メシヤとしての認証式が終わりました。すぐにでも宣教活動を始めたいところですが、御霊は主イエスにそれを許されませんでした。かえって御霊は、主イエスを人里離れた荒野に導かれたのでした。喧噪の中に身を置き、忙しく過ごすというよりも、この時、主イエスは一人になるように導かれたのです。私たちの生涯にも一人になって、神の御前に静まりまた真剣に取り組む、このような時が必要です。
 ただこの荒野で、主イエスはサタンの試みにあわれることになります。私たちがこの地上を歩む間は、種類は変わるかもしれませんが誘惑にあい続けるでしょう。きよい神の子イエスも誘惑を受けられたのです。もちろん、主イエスはサタンに勝利してくださいました。
 油断は禁物です。サタンは私たちの弱さを知り、弱いところをついてきます。けれども知ってください。御使たちが主イエスに仕えていたとマルコは書きます。サタンに勝たれた主が共にいてくださり、私たちのためにも天使は遣わされています。

マルコ 1章14〜15節     2012年4月26日

時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。(15)

 主イエスの四十日の荒野の経験は、イスラエルの民が昔、エジプトから救い出された後、さまよった四十年の荒野の生活を指し示しているとも言われます。そして、主イエスはヨハネが捕らえられたということを一つのしるしとして宣教を開始されます。
 主イエスが語られたのは、第一に旧約聖書の成就する時、救いの実現の時が来た、ということでした。主イエスはまさに、旧約聖書に約束されていた救い主として来て下さったのです。
 二つ目は、神の国が近づいた、ということでした。神の国とは、神の王国であり、神のご支配のことです。ここで言われているのは、主イエスが来られたところによって新しい時代が始まり、信じる者のうちに神の国が始まっているということです。神の国の完成は主イエスの再臨を待たなければならないでしょう。けれども、すでに神の支配は始まっているのです。
 そして三つ目は、その神の国に入るために、悔い改めて信じるようにということです。主が求められたのは神の国に入るためには善行を積めということではなく、信じるようにということだったのです。

マルコ 1章16〜20節     2012年4月27日

イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。(17〜18)

 主イエスの公生涯にあって、主がとても大事にし、また多くの心と時間とを用いられたのは、弟子たちを教え、訓練し、育てるということでした。ですから主イエスはその公生涯の早い時期に弟子たちを選び召して行かれました。今日の聖書の箇所は主イエスがガリラヤの漁師たちに声をかけて弟子とされた場面です。主イエスはペテロとその兄弟アンデレに声をかけ、またゼベダイの子ヤコブとヨハネに声をかけて弟子とされました。
 彼らは多くの聖書知識を持っていなかったかもしれませんし、また必ずしも人格的に優れた人々だったというわけでもないでしょう。けれども主イエスは彼らにおっしゃいます。「わたしについてきなさい」。それは自分の言うことを聞いてその通りにするようにというよりも、自分と一緒に来るようにという招きでした。魚ではなく、人間をとる漁師にしよう、と主は約束されました。
 そして召されたガリラヤ湖の漁師たちは持ち物を全部捨て、そこにおいて、すぐに、主イエスに従ったのでした。

マルコ 1章21〜28節     2012年4月28日

イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言われた。すると、けがれた霊は彼をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。(25〜26)

 カペナウムというのはガリラヤ湖畔の町で、主イエスはその公生涯の間、このカペナウムを宣教の基地とされました。伝道旅行に出られる時には、ここを起点として出かけ、またここに戻って来られました。
 主イエスはこのカペナウムの会堂で教えられます。人々は主イエスの教えに驚きます。それは主イエスが「権威ある者」のように語られたからです。律法学者たちはそれまでの先人たちの言葉を引用し、偉大な先人たちの権威の下に人々を教えました。ですから主イエスが自分の言葉で語られた時に、それはとても衝撃的だったのでしょう。
 またけがれた霊が一人の人を支配し、そこにとどまろうとした時にも、その悪霊をしかり、負いだして下さったのでした。主イエスの教えは決して口先だけのものではありませんでした。主イエスには力と権威があったのです。

マルコ 1章29〜31節     2012年4月29日

イエスは近寄り、その手をとって起されると、熱が引き、女は彼らをもてなした。(30)

 主イエスは会堂を出られると、ペテロとアンデレの家に行かれます。ペテロはこの時点ですでに結婚しており、自分の妻の母親と一緒に暮らしていたことが分かります。しかし、このペテロのしゅうとめは熱病で床についていました。ペテロがそのことをイエスさまに言ったというよりも、その町の人々がペテロに代わって、そのことを主イエスに耳打ちしたのかもしれません。
 主イエスはそのことを知られた時に、そこを素通りすること、また聞かなかったふりをすることはなさいませんでした。主イエスは目にしたこと、耳にしたことを、見なかったこと・聞かなかったことにはできなかったのです。
 ペテロのしゅうとめは主イエスに対して複雑な思いをもっていたかもしれません。ペテロとアンデレが主イエスの弟子となった時、家族としては、彼らにおとなしく平凡でも漁師をしていてほしいと思わなかったでしょうか。しかし、主は彼女に近づいて彼女を癒してくださいました。いやされた彼女は主イエスと一行をもてなし、仕えたのでした。

マルコ 1章32〜39節     2012年4月30日

イエスは彼らに言われた、「ほかの、附近の町々にみんなで行って、そこでも教を宣べ伝えよう。わたしはこのために出てきたのだから」。(38)

 主イエスの評判は町中に広がって行きます。病気の人々、悪霊につかれている人たちがイエスのところに連れてこられました。そしてイエスのところに来た人は皆、癒されていったのでした。多くの人たちがイエスの教えに熱狂し、またイエスのなさる力ある業を見ようと集まって来ました。
 けれども主イエスは寂しい所に行って早朝から祈られました。人気絶頂で、人々の賞賛の大合唱が響く中で、主イエスはどうしてもひとりになって静まることが必要だと思われたのでしょう。そして弟子たちが主イエスを捜し出し、人々のところに連れ戻そうとした時に、主は祈りの結論としておっしゃいます。「他の町へ行こう」。その町にとどまることは、主イエスにとっても弟子たちにとっても楽だったかもしれません。けれども、主はその人気の中にとどまるよりも、ガリラヤ全地を巡り歩いて、福音を宣べ伝えることを選ばれたのでした。

マルコ 1章40〜45節     2012年5月1日

イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。(41)

 ひとりの重い皮膚病の人が主イエスに近づいてきました。この重い皮膚病にかかると、宗教的に汚れた者とされ、社会的にも宗教的にも隔離され、また時に、神に捨てられ、神の呪いと裁きとを負う者とされました。けれども、彼は主イエスのもとにひざまづいて言います。「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。私がきよくされるのはあなたのお気持ち一つです、というのです。ここにこの男の信仰があります。
 主は、「そうしてあげよう、きよくなれ」とおっしゃいます。「このそうしてあげよう」という言葉は、わたしがあなたをきよくする、という言葉であると共に、「みこころでしたら」という重い皮膚病の男に対する「わたしは確かにあなたがきよくされることを願っているよ」という恵みの答えでもありました。
 主は私たちをきよくしたいと願い、また実際にわたしたちの罪の問題に解決を与え、私たちをきよくして、神との新しい関係の中に生きる者としてくださるのです。


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