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マルコ 8章1〜10節     2012年5月31日

この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。もし、彼らを空腹のまま家に帰らせるなら、途中で弱り切ってしまうであろう。それに、なかには遠くからきている者もある。(2〜3)

 主イエスのもとにはまた遠くから近くから大勢の群衆が集まってきました。そして主イエスの話をずっと聞き続けていました。三日間も主イエスのそばにいても、彼らは主イエスから離れようとしません。食べることも忘れるほどに、彼らは神の言に飢え渇いていたのでしょう。けれども、さすがに彼らの表情にも疲れが見えてきました。主イエスは「彼らがかわいそう」とおっしゃり、食べるものを与えたいと願われたのでした。
 この時にはパンは七つでした。しかし、主はその七つのパンを感謝し、祝福して配らせられます。そこには男性だけでも四千人の人がいました。けれども、集まっていた人々は皆満腹し、残ったパンくずだけで七かごでした。パンの数は問題ではありません。七つでも百でも、足りないことには変わりは無いでしょう。けれども、それが主の御手の中に置かれ、主に祝福される時に多くの人を潤していくのです。私たちも、自らを主の御手の中に置いていただきましょう。


  関連礼拝メッセージ: 

マルコ 8章11〜13節     2012年6月1日

イエスは、心の中で深く嘆息して言われた、「なぜ、今の時代はしるしを求めるのだろう。よく言い聞かせておくが、しるしは今の時代には決して与えられない」。(12)

 主イエスは数々のしるしを行い、ご自分が旧約聖書で預言されていた救い主であることを証ししてこられました。けれども、このパリサイ人たちははなから主イエスを信じる思いはありません。今まで主イエスがしてこpられたこと、彼らの耳に入っている数々の奇跡については全く受け入れようとはせず、自分たちの目の前で不思議な事をしてみるようにと求めたのでした。
 主イエスはしるしを求める時代を嘆かれます。主イエスのしるしは信じるところに表されました。しるしを見たら信じようという人は、目の前にどんなに大きな奇跡が起こったとしても、主を信じることはしないでしょう。実は、私たちの五感というのも案外当てにならないものです。大事なことは、しるしを見て信じるということではなく、今、私たちの前におられる主を、主として、救い主として信じ、受け入れることです。信じる時に、主は神が今も確かに生きて働いていて下さるということを明らかに示してくださるでしょう。


       関連礼拝メッセージ: 

マルコ 8章14〜21節     2012年6月2日

そのとき、イエスは彼らを戒めて、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われた。(15)

 主イエスと弟子たちはまた舟に乗り、向こう岸に向かいます。けれども彼らはパンを持ってくるのを忘れていました。舟の中にはパンがひとつあるだけです。舟の中で、主イエスは弟子たちに、パリサイ人のパン種と、ヘロデのパン種とを警戒するようにとおっしゃいます。弟子たちはその時に、自分たちがパンを忘れてきたことを思い起こします。けれども主イエスがおっしゃったのは、パンを忘れてはダメだ、ということではありませんでした。今、あの大きな奇跡を見たばかりです。パンがひとつでも心配はいらないでしょう。
 パンを忘れないようと言うことではなく、ほんのわずかな量でも全体を膨らますことのできるパン種(イースト)のように、間違った邪悪で不信仰な教えは、少しでも私たち全体に影響を及ぼしてしまうことになるから、気をつけるようにということだったのです。パリサイ人の教え(人間の努力や真面目さで救われるかのように考える教え)、ヘロデの教え(目に見える権力や金銭・高い身分などを求める思い)に私たちも気をつけたいと思います。


       関連礼拝メッセージ: 

マルコ 8章22〜26節     2012年6月3日

それから、イエスが再び目の上に両手を当てられると、盲人は見つめているうちに、なおってきて、すべてのものがはっきりと見えだした。(25)

 主イエスは弟子たちのことを嘆いて、「目があっても見えない・・・耳があっても聞こえない」とおっしゃいます。では私たちはどうしたらよいのでしょうか。私たちの目を開いて下さるのは主イエスご自身です。
 主イエスがベツサイダに着いた時、人々は一人の目の見えない人を主イエスの所に連れてきます。主イエスは彼の両方の目につばきをし、手を当てて「何か見えるか」とおっしゃいます。彼は光を感じるようになったのですが、最初はぼんやりとしています。主イエスはまた彼の目に手を当てられます。聖書はこう言います。「盲人は見つめているうちに」はっきりと見えだしたのです。最初はぼんやりしていたものが、見つめているうちによく見えるようになっていく。主はまさにそのような御業を私たちのためにもしてくださいます。
 主がみ声をかけ、私たちに触れてくださる。そして、私たちが見つめていると、だんだんはっきりと見えるようになってくる、神さまのことが分かってくるのです。


       関連礼拝メッセージ: 

マルコ 8章27〜30節     2012年6月4日

そこでイエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」。(29)

 主イエスは弟子たちと一緒にピリポ・カイザリヤに行かれます。これはヨルダン川の北方で、ガリラヤ湖に流れ込む川の源流に近いところです。そこには巨大な偶像の神殿や、ローマ皇帝を拝む神殿がありました。主イエスは弟子たちとだけしばらくの時を過ごしたいと思われたのでしょう。そのような異教の地に行かれます。
 そして、主は人々が自分をどう言っているかを尋ねられます。けれども大事なのは次の問いかけです。「それでは、あなたはわたしをだれと言うか」。人が主イエスのことをどう言っているかはいい、それでは「あなたは?」と主は問われます。
 ペテロが答えました。「あなたこそキリストです」。あなたこそが旧約聖書の中で予告されていた救い主です、とペテロは答えたのです。この時点ではまだペテロには、主イエスがキリストということがどういうことかが十分には分かっていませんでした。私たちも最初信仰を持った時には、主イエスのことがよく分かっていなかったかもしれません。けれども、この告白がわたしたちにとっても転機となるのです。


       関連礼拝メッセージ: 

マルコ 8章31〜33節     2012年6月5日

サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。(33)

 ペテロは弟子たちを代表するようにして、主イエスが旧約聖書で約束されていたキリスト、救い主であるという告白をしました。そしてこの信仰告白を転機として、主イエスは受難の予告を始められます。
 けれども、そのことは弟子たちには理解しがたいことでした。彼らはキリストはローマを打ち破り、王となってダビデの王国を復興すると考え、期待していたからです。ペテロは主イエスが捨てられ、殺されると語られることは我慢できませんでした。許容範囲を超えていました。そして、ペテロはイエスを脇へ引き寄せていさめます。
 しかし、主イエスはペテロと弟子たちを本気で叱りつけられます。「サタンよ、引き下がれ」。十字架を避けさせようとするのはまさにサタンの働きであることを主イエスは知って、愛する弟子たちにさえも怒られたのでした。神がどれほど人を愛し、どんなに大きな事をしようとしておられるかを弟子たちは知る必要がありました。


       関連礼拝メッセージ: 

マルコ 8章34〜38節     2012年6月6日

だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。(34)

 ここで主イエスは今度は弟子たちに加えて群衆をも引き寄せて語られます。弟子たちの思い・誤解は、群衆の思いでもあったでしょう。けれども主イエスが進もうとしておられたのは十字架の道でした。「十字架」という言葉は聞いている人々に大きな恐怖を呼び起こしたはずです。十字架はローマが支配していた民に対して考え出した恐ろしい死刑の方法でした。十字架刑になると囚人は、自分が付けられる十字架を刑場まで担いで上がり、はり付けにされて、極度の苦しみと渇きの中、長い時間苦しみながら死んで行きました。
 主イエスはその十字架の道を進んで行こうとしておられました。それは苦しみの道でした。しかし、同時に、それは私たち人間に神が備えてくださった唯一の救いの道でした。そして、主イエスは自らがその道を行くだけでなく、自分を捨て自分の十字架を負ってついてくるようにと私たちを招かれます。それが一番の祝福の道だからです。 


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