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マルコ 2章1〜12節     2012年5月2日

イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。(5)

 主イエスがカペナウムに帰られると人々が大勢集まってきて、主イエスがおられた家は「すきまのないほど」になっていました。主イエスはそこで人々に御言を語っておられました。そんな時、人々がひとりの中風の男を四人の人に運ばせて連れてきます。門からも窓からも入れないという中で、彼らはその病人を寝かせたまま屋上に連れて行き、屋根をはいで、主イエスの前につり下ろしたのでした。
 主イエスは彼らの信仰をごらんになります。単に中風の男だけではない、何とかして彼を主イエスのもとに連れて行きたい、主イエスはきっといやしてくださると信じたそのチームの信仰を、その行為の中にごらんになったのです。
 けれども、主はこの男の問題が単に体の病の問題ではないことを見抜いておられました。ですから彼に、「あなたの罪はゆるされた」と宣言されます。主イエスはまさに罪をゆるす権威をもっておられたのです。

マルコ 2章13〜17節     2012年5月3日

丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。(17)

 主イエスは、道の途中に座っていた取税人アルパヨの子レビをごらんになって、声をかけられます。彼はおそらくそこを通る人たちから通行税を集めていたのだろうと言われています。このレビは、マタイのことです。「わたしに従ってきなさい」という呼びかけを聞いて、彼は立ち上がって主イエスに従います。
 彼は自分の家で、主イエスや弟子たちのために食事の席を設けます。多くの取税人仲間たちや、社会的に宗教的に罪人とされていた人たちも一緒でした。主イエスについてきていた群衆の中にはこのような人々が大勢いたのです。
 宗教家たちは主イエスがこのような人たちと食事を共にするのを見て眉をしかめます。けれども主は、このような問題を抱えた人々を招くために来たのだと宣言されたのでした。彼らは自分たちが「病人」、問題を抱えた者であることを認めて、主イエスに助けを求めていたのです。

マルコ 2章18〜22節     2012年5月4日

まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそうすれば、ぶどう酒は皮袋をはり裂き、そして、ぶどう酒も皮袋もむだになってしまう。(22)

 主イエスの信仰の実践の姿はそれまでの宗教家たちとはずいぶん違っていました。それまでの宗教家たちは、いわゆる罪人たちには近づきませんでしたし、交わろうとしませんでした。また、パリサイ人たちもまたバプテスマのヨハネの弟子たちも習慣的に断食をしていました。なぜ、主イエスの弟子たちが断食しないのか、と問われて、主イエスは彼らは花婿と共にいる婚礼の客のようなものだとおっしゃいます。もちろん、ここで花婿とは主イエスのことです。今は、本当に喜ぶべき時なのだと言うのです。
 主イエスの福音は、新しい布であり、新しいぶどう酒です。だから古い布きれにつぎをあてるようなことはできないし、古い皮袋にはおさまりません。人間の努力や計算、宗教性や律法にしばられた倫理観では理解できないのです。今までの自分の価値観や考えを一旦捨てて、主が語られること、なさることを、そのまま見つめるところから始めたいと思います。

マルコ 2章23〜28節     2012年4月25日

安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」。(27〜28)

 主イエスの弟子たちが安息日に、麦畑で歩きながら穂を摘んでいました。空腹を感じた彼らはその麦の穂をもんで食べていたのでしょう。そのことを見たパリサイ人たちは主イエスにかみつきます。それは「安息日にはしてはならぬこと」だというのです。確かに「安息日を覚えてこれを聖とせよ」という戒めの中で、安息日を主のためにとりかけ、その日には仕事をしないようにと命じられています。そしてパリサイ人たちはこの麦畑で穂を摘むということが「収穫」という仕事に当たると理解したのです。
 主は、サムエル上二一章のダビデの逸話を引きながら、文字にばかりとらわれて、ものの本質を見失っている宗教家たちの姿勢を批判されました。安息日は人のために制定されました。人が一週の労役を解かれて休み、主の御前に出て安息を得ることができるためです。そして、また、人の子なる主イエスは安息日をも支配されるお方、安息日にも力強く働かれるお方なのです。


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