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マルコ 3章1〜6節     2012年5月6日

イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆いて、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、その手は元どおりになった。(5)

 主イエスと宗教家たちのやりとりが続いています。ある日、主イエスが会堂に入られると、片手の動かない人がいました。人々が主イエスが彼をいやされるかどうかを注視していたことからすると、彼は宗教論争の具としてそこにわざわざ連れてこられたのかもしれません。
 ただ、主イエスにとっては、自分にいやす力があるのに、そこに信仰をもって立っている人がいるのに、次の日まで待つようにというという選択肢があると考える方が不思議でした。安息日に善を行うこと、命を救うことはいけないことなのか、問いかけても黙っている人々に対して主イエスは怒りと嘆きを感じられます。
 そして、その人に「手を伸ばしなさい」とおっしゃるのでした。手が伸びなかった人に、手を伸ばすように命じるというのは無茶な話です。けれども主イエスが語られ、聞いた人が信仰をもってそのお言葉を受け入れた時に、そのお言葉の通りのことが起こるのです。

マルコ 3章7〜12節     2012年5月7日

イエスは御自身のことを人にあらわさないようにと、彼らをきびしく戒められた。(12)

 主イエスの評判はますます広がって行きました。ガリラヤ中から大勢の人々が集まってきます。それだけではなく南部ユダヤ地方、首都エルサレム、死海の南側のイドマヤ、ヨルダン川の東側、また地中海沿岸のツロやシドンからもおびただしい群衆が主イエスのおられる田舎にまで押し寄せてきました。主イエスの教えを聞きたいという人たちもいたでしょうが、病苦に悩んでいる人たちは、主イエスにせめてさわりたい、そうしたらいやされるはずだ、そう思って主イエスに押し迫ってきました。
 主イエスはまた汚れた霊に支配されている人々を解放し、自由を与えられました。汚れた霊たちは「あなたこそ神の子です」と叫びました。イエスは彼らを黙らせます。人々がメシヤに対する誤った期待を持って主イエスを政治的・軍事的な王とすることによって、十字架の道が違ったものとすり替えられてしまわないためです。主イエスが神の子ということは悪霊も認めています。私たちの信仰は、神の子イエスは私の救い主という信仰なのです。

マルコ 3章13〜19節     2012年5月8日

そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。(14〜15)

 主イエスは山に登り、十二人の弟子たちをお立てになりました。彼らは主のみこころにかなった者たちでした。この十二人は実にバラエティーに富んだ人物たちです。ペテロとアンデレは兄弟、ヤコブとヨハネは兄弟で、この四人は漁師でした。このヤコブとヨハネにつけられた「ボアネルゲ」というあだ名から、彼らは熱しやすい短気な人たちだったかもしれないと言われます。マタイは取税人。熱心党のシモンは右翼。マタイとは全く逆の立場の人です。ほとんどの弟子たちは北部ガリラヤ地方出身で、政治文化の中心であったユダヤの出身者はイスカリオテのユダだけだっただろうと言われています。
 主がこの十二人をお選びになったのは、彼らをみそばに置くためでした。公生涯の三年という短い期間に彼らは主イエスと寝起きを共にしながら主イエスに学んだのです。また彼らはただ主イエスのそばにいるだけでなく、主イエスは実際に彼らを宣教に遣わして実践の中でも学ばせられたのでした。あなたも主のみそばに置くために召されています。

マルコ 3章19〜30節     2012年5月9日

よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる。(28〜29)

 主イエスが悪霊を追い出されたり、また病を癒したりされた時、群衆はどんどん熱狂し、また多くの群衆が集まるようになっていました。けれども、同時にそのことを苦々しく思っている人たちがいたことも事実です。「エルサレムから下ってきた律法学者たち」は、エルサレムで、遠く主イエスの噂を聞いて実態を調査しに来たのかもしれません。けれども、彼らは冷静に主イエスの話を聞いて、主イエスを信じるというのではなく、とても感情的な反応をします。「主イエスは悪魔の親分にとりつかれているのだ」「だからその親分の力で子分を治めているだけだ」。
 主イエスは彼らの論理が成り立たないことを指し示されると共に、「聖霊をけがすこと」への警告をなさいます。「聖霊を汚す」とは神の遣わされた救い主を拒み続け、神の業を悪霊の仕業であるかのように言うことです。この救い主を拒んでしまったら、他にはどこにも救いはないからです。

マルコ 3章31〜35節     2012年5月10日

ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのであるである。(34〜35)

 21節のところでは、身内の者たちがイエスを取り押さえに出てきた、と書かれています。「イエスは気が狂った」とか、「悪霊に取り憑かれている」とかという悪意に満ちた噂はどんなに主イエスの家族を悲しませたことでしょう。そこには母マリヤも弟や妹たちもいました。けれども、主イエスは自分の肉における家族の所に帰って行こうとはされませんでした。そして自分を取り囲んでいる人々を見回しながら、そこにいる彼らこそが自分の家族だとおっしゃったのでした。
 主イエスは今も、私たちのことを見回しながら「わたしの兄弟、また姉妹、また母」と言ってくださいます。神を信じ、そのみこころに生きる人は、主イエスの家族です。そして、主イエスの家族として受け入れられたお互いは、お互い同士も、同じ主にある兄弟姉妹です。神の家族の中に入れていただいていることを感謝するとともに、このすばらしい神の家族が与えられていることを感謝しましょう。


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