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マルコ 11章1〜11節     2012年6月20日

むこうの村へ行きなさい。そこにはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのないろばの子が、つないであるのを見るであろう。それを解いて引いてきなさい。(2)

 主イエスはエルサレムに近づかれた時、ふたりの弟子を遣わしてろばの子を引いてこさせます。これはまさにメシヤの王としてのエルサレム入場でした。王にはずっと軍馬の方が似合います。しかし、主イエスはろばに、しかもろばの子に乗られました。それはマタイが記録していたように旧約聖書のゼカリヤ書の成就であり、武力と脅迫で人々を従わせる王ではなく、柔和な僕として来られた主イエスにふさわしいことでした。
 また、この子ろばは「まだ誰も乗ったことのない」ろばの子でした。まさに主イエスは、新しいろば、使い回しではない、これまで主イエスだけのために育ってきたかのようなろばの子に乗られたのです。もうこれはいらないから、神さま使ってくださいというのではなく、まず最初に一番良いものを主イエスにささげて、主イエスのために使っていただきたいと思います。主は私たちにも「主がお入り用なのです」とおっしゃいます。私たちは神さまに何を献げたら良いでしょうか。


  関連礼拝メッセージ: 

マルコ 11章12〜14節     2012年6月21日

そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見当らなかった。いちじくの季節でなかったからである。(13)

 主イエスが人々の歓声の中、エルサレムに上って行かれた次の日、主は空腹になって、葉の茂ったいちじくの木に近づいて実を求められました。けれども、いちじくの季節ではなかったので、葉だけでそこには実はありませんでした。主はそのいちじくの木を呪われたのでした。
 私たちは、この話を読むと、主イエスの行動は理解できないと思います。主イエスもいちじくの季節かどうかは当然分かっていたはずです。主イエスはいらいらして、いちじくの木に八つ当たりしておられるのでしょうか。
 いいえ、この主イエスの呪いの言葉には象徴的な意味があったのです。いちじくはイスラエルを代表する作物の一つで、イスラエル民族を象徴するものとして扱われました。この呪いの言葉は、外側は青々として豊かに見えても、神をお喜ばせする実を結ぶことのないイスラエルに対する警告だったのです。私たちは神さまが求められる時に、神さまをお喜ばせする実を結んでいるでしょうか。


       関連礼拝メッセージ: 

マルコ 11章15〜19節     2012年6月22日

「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。(17)

 エルサレムに来られた主イエスは宮で商売していた人たちを追い出し、その人たちの台をひっくり返していきます。主イエスは宮の庭で金儲けをしていた人たちに対して激しく怒られたのでした。元々は遠方から礼拝に来る人たちの便宜を図るための両替商であり、動物を売る店でした。けれども、彼らはその礼拝の場を自分の欲を満たす場としていたのです。
 実は異邦人にとっては宮の庭は祈るために許された唯一の場でした。異邦人は庭から奥に入っていくことはできなかったのです。その祈りの場が騒がしい、欲の渦巻く「強盗の巣」になってしまっている・・・主イエスは悲しみ憤られたのです。
 教会は今も全ての人のための祈りの場であり、礼拝の場です。表面的には宗教的実践を支え、神さまのことを考えているように見せながら、自分のことしか考えていない・・・。私たちはどのように主を礼拝し、どのように礼拝しようとしている人たちを守り支えているでしょうか。


       関連礼拝メッセージ: 

マルコ 11章20〜26節     2012年6月23日

なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。(24)

主イエスが呪われたいちじくの木は次の日にはすっかり枯れていました。前の日に青々と葉を茂らせていたいちじくが枯れてしまったのは、神からの裁きであり、警告でした。ユダヤ人たちに対する裁きの日が近づいていたのです。
 しかし弟子たちはこの奇跡に、主イエスの言葉、その祈りの力の大きさを見ました。けれども主は自分が特別と言うよりも、信じて祈る者の祈りを、神は必ず聞いてくださると約束してくださいました。大事なことは信じることです。信じるなら、どんな困難の山も動いていきますし、祈ったとおりになっていくのです。もちろん私たちのわがままや、自己中心や、罪の願いがかなっていくということではありません。また私たちが誰かに対する恨みや苦々しい思い、赦さない心を持ち続けていたら、私たちの祈りは神に届かないでしょう。
 自らも悔い改め、人を赦しつつ、神の御旨を求め信仰をもって祈るお互いでありたいと思います


       関連礼拝メッセージ: 

マルコ 11章27〜33節     2012年6月24日

「何の権威によってこれらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」。(28)

 主イエスが宮で商売をしている人たちを追い出したり、神殿で人々を教えているのを見て、祭司長・律法学者・長老たちはイライラを募らせていきます。群衆がイエスの教えに感動している様子を見ると、本当に群衆が皆、自分たちを離れて主イエスについていきそうにも思えてきます。彼らはまた主イエスを中心とする暴動が起きて、ローマ軍の介入を招き、今、許されている宗教的自由や与えられている特権までもが奪われてしまうのを恐れたとも言われます。
 彼らは主イエスに直接尋ねます。「何の権威によってこれらのことをするのですか」。主イエスは、彼らにまずこの問いに答えてほしいと逆に問いかけられます。ヨハネのバプテスマは天からだったか、人からだったか。けれども、自分の立場を守り、また人を恐れた彼らはその問いに答えることを拒みます。謙虚になって信じますとも言えないし、人を恐れて自分たちは信じないとも言えないのです。
 主イエスの権威に関する問いへの答えは明白です。主イエスは神の権威によってこれらのことをしておられたのです。主イエスは権威をもっておられます。


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