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ユダ 1〜4節     2014年11月12日

わたしたちが共にあずかっている救について、あなたがたに書きおくりたいと心から願っていたので、聖徒たちによって、ひとたび伝えられた信仰のために戦うことを勧めるように、手紙をおくる必要を感じるに至った。(4〜5)

 この手紙を書いたのは、主イエスの弟のユダです。十二弟子の中にもユダという人物がいましたが、別人物になります。マルコ六3によれば、主イエスの弟、マリヤとヨセフの四男であったようです。ユダもイエスの弟ヤコブと同じように、初代教会の指導者のひとりでした。
 ユダがこの手紙を書いたのは、偽教師たちが教会の中に入り込んできて、教会の人々を惑わそうとしていたからです。彼らは神の恵みを放縦な生活に変え、魂が救われたのだから、肉体は何をしてもよいのだと教えました。また、イエス・キリストを否定し、主が成就してくださった十字架の救いを信じることを拒みました。そのような偽教師たちが、知らず知らずのうちに教会の中にも紛れ込み、忍び込んでいる・・・。
 ユダは、これが一つの大きな戦いであることを知っていました。それは伝えられた信仰に立ち続けるという戦いなのです。

ユダ 5〜16節     2014年11月13日

あなたがたはみな、じゅうぶんに知っていることではあるが、主が民をエジプトの地から救い出して後、不信仰な者を滅ぼされたことを、思い起してもらいたい。(5)

 イスラエルの民にとって、エジプトから救い出されたということは非常に大きなことでした。到底起こりえないことが起こったのです。それは主のしてくださったすばらしい救いの出来事であり、イスラエルの救いの原点でした。しかし、実際には、不信仰な人々は荒野で滅んでしまうことになります。ユダは旧約聖書の実例や、その当時の人々が皆知っていた物語を引用しながら警告を発します。
 偽教師たちが教会の中にも忍び込んで、不平不満を並べ、欲望のままに生活し、高慢で、自己中心な生き方をし、そして、教会の中の人々をも惑わしかねない・・・ユダは非常に心配をしています。
 私たちは、自分が救われているかどうかと心配する必要はありません。主イエスを信じるときに、私たちは救われます。そのことは確かです。しかし同時に、私たちは信仰に立ち続け、与えられた救いに立ち続ける必要があるのです。

ユダ 17〜23節     2014年11月14日

あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。(20〜21)

 終わりの時に、偽教師たちが現れることについては、主イエスの弟子たちも警告していた通りでした。それは終わりの時が迫っているしるしでもありました。
 私たちに求められているのは信仰の上に自らを立てあげていくことです。信仰は決して、私たちの内心の態度や姿勢ではありません。神が私たちに望み、与えてくださった賜物なのです。そして、この「信仰」が私たちの歩みすべての土台となっていくことが必要です。次に言われるのは、「聖霊によって祈る」ということです。私たちは、祈るときに、もっと聖霊の助けを求めるべきです。聖霊は私たちの祈りを支え、導いてくださいます。「聖霊様、私の祈りを導いてください」と求めましょう。そして、神が私たちに与えようとしておられるものを待ち望むことです。それは永遠のいのちであり、主イエスのあわれみです。主はその豊かなあわれみと恵みによって、信じるものにいのちをくださるからです。

ユダ 24〜25節     2014年11月15日

あなたがたを守ってつまずかない者とし、また、その栄光のまえに傷なき者として、喜びのうちに立たせて下さるかた、すなわち、わたしたちの救主なる唯一の神・・・(24〜25)

 ユダは神をあがめ、頌栄をもってこの短い手紙を閉じます。確かに教会の中にさまざまな戦いがあり、また、問題があるかもしれません。また忍び込んで来ようとする悪の力に対しても警戒していなければなりません。そしてそのような様々な問題に対して、私たちは決して強くないことを思います。しかし、ユダは神に信頼し、神をあがめるのです。それは、神は私たちを守ってつまづかない者とすることがおできになるからです。日本語で「つまづく」という時に、「誰かにつまづいた」とか、「私は新しく信仰を持つ人たちの『つまづき』になっているかもしれない」というように、つまづきを与える個人が問題にされ、非難されることが多いように思います。確かに信仰の弱い人をつまづかせることのないようにと主イエスもおっしゃいましたが、ここで「つまづかない者とし」とあるのは、信仰から離れることのないように、主が私たちを守ってくださるということです。主は私たちをきよめ、最後まで私たちを支えて、傷のない者として、喜びのうちに御前に立たせてくださるのです。



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