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ガラテヤ 1章1〜2節     2014年2月11日

人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ・・・(1)

 ガラテヤ書は使徒パウロがガラテヤの諸教会に宛てて書いた手紙です。ガラテヤというのは今のトルコ中部の町々なのですが、パウロはこれらの町々を一回目の伝道旅行の時に訪ねて福音を伝えました。しかし、パウロが去った後、パウロとは違ったことを教える教師たちが回ってきて、人々の間に混乱が生じます。主イエスに対する信仰による救いという生命線を失ってしまう人々も起きているということを耳にして、パウロはいても立ってもいられない思いでこの手紙を書いています。
 教会に出入りしながら、パウロに反対し、パウロの指導に従いたくない人々は共通して、パウロの権威を問題にしました。パウロはその権威を、他の十二弟子と同じようには受けていない・・・と主張したのです。ですからパウロは、自分は人によってではなく、イエス・キリストと、父なる神によって立てられた使徒なのだ、という挨拶でこの手紙を始めます。私たちお互いも、パウロとは違っても、私たちも神によって特別な使命を託されていることを忘れないでいたいと思います。 

ガラテヤ 1章3〜5節     2014年2月12日

キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである。(4) 

 まずパウロはガラテヤの諸教会のために神の恵みと平安を祈ります。私たちはみな、人々のために神の恵みと平安を祈る務めを与えられているのです。
 そしてパウロはキリストについて語ります。元々、「キリスト(メシヤ」とは「油注がれた者」という意味でした。昔、イスラエルエでは神から特別な使命を与えられて神の仕事を担う人を聖別するという意味で、油を注ぎました。王・預言者・大祭司などが油を注がれたのですが、後にこの「キリスト」という言葉は、「約束に従って、神がイスラエルを救うために遣わしてくださる救い主」という特別な意味を持つようになります。イスラエルの人々は自分たちを政治的に救い出してくれる王を期待していました。けれどもこのキリストは私たちを「悪の世から救い出し」「罪」から救ってくださるお方であり、そのために、ご自身を十字架の上で犠牲として献げてくださいました。それこそが父なる神が私たちのために計画してくださっていたことだったのです。

ガラテヤ 1章6〜9節     2014年2月13日

あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない。(6)

 パウロは、挨拶を終えると、すぐに本題に入っていきます。ここにはパウロの激しい怒りと嘆きがあります。パウロがガラテヤを去った後、「違った福音」を語る人々がその地方に入ってきます。その人々は、主イエスを信じるだけでは不十分で、割礼を受けてユダヤ教に改宗し、律法や言い伝えを守らなければ救われない、と説き、異邦人教会を混乱させていたのです。
 「信じる」だけというのはある意味、心細く、何か足りないように感じるかもしれません。プラスで何か具体的なことを要求し、何かをしたら救われると言うと、私たちは一生懸命それをしようとするのだと思います。しかし、そこから出てくるのは自分はこれだけ頑張ったという、自分の業を誇る姿勢であり、そこにはキリストの恵みによる救いはないのです。
 私たちを「キリストの恵みの内に」招いてくださったお方にいつも目をとめていたいと思います。

ガラテヤ 1章10節     2014年2月14日

今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。(10) 

 厳格なユダヤ教の背景を持ちながら信仰に入った人々は、主イエスの救いにあずかってからも、それまでの律法に従う生活を続けていました。それはまさに彼らの生活習慣であり、彼らの存在の一部でもあったからです。彼らはそれでよかったのです。しかし、彼らが、福音プラスアルファとして、自分たちの生活習慣までも異邦人教会に強要するようになると、話は別です。
 パウロは、そのようなユダヤ主義的な背景をもったキリスト者の顔色をうかがい、また彼らの人気をとり、受けを狙うこともできたはずです。そのようにしていたら、ある人々との摩擦は受けなくてすんだことでしょう。しかし、パウロは人に喜ばれたり、人の歓心を得ることには興味がありませんでした。
 私たちは、誰を向いているのでしょうか。人の顔色でしょうか。それとも神に喜ばれることでしょうか。キリストの僕に徹することでしょうか。

ガラテヤ 1章11〜17節     2014年2月15日

ところが、母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわたしをお召しになったかたが、異邦人の間に宣べ伝えさせるために、御子をわたしの内に啓示して下さった時・・・(15〜16)

 パウロは自分が伝えている福音は「ただイエス・キリストの啓示による」ものだと言います。パウロはもともと、ユダヤ教に精進し、先祖たちの言い伝えにも熱心でした。また神の教会を激しく迫害していました。けれども、神はそんなパウロに御子を啓示してくださったのです。そして、パウロは誰かに相談したり、師事したのではなく、アラビヤに退き、そこで自分が与えられた啓示について理解を深める時をもったのでしょう。もちろん、その啓示はパウロが突然与えられたひらめきというようなものではなく、旧約聖書にすでに明らかにされていたことでした。そのことを神はパウロに悟らせてくださったのです。
 パウロがこの啓示を与えられたのは、異邦人の間で主イエス・キリストの救いを宣べ伝えるためでした。そして、パウロが主イエスと出会うずっと前、母の胎内にある時から、神は彼を召しておられたのです。

ガラテヤ 1章18〜23節     2014年2月16日

ただ彼らは、「かつて自分たちを迫害した者が、以前には撲滅しようとしていたその信仰を、今は宣べ伝えている」と聞き、わたしのことで、神をほめたたえた。(23〜24)

 三年後、パウロはケパ(ペテロのこと)に会うためにエルサレムに上り、ケパの家に十五日間滞在すると共にエルサレム教会において指導的な立場になっていた主イエスの弟ヤコブと会っています。おそらくその時にも、ペテロやヤコブに自分の証をし、自分が与えられている召しについて話をしていたことでしょう。
 「ほかのどの使徒にも会わなかった」「十五日間」の短い滞在であったことは、パウロが自分が宣べ伝えている福音が人間によってではなく、神によって与えられたメッセージであることを強調するためでもあったことでしょう。
 その後もパウロは、歴史の表舞台からは離れたところにいました。そして、迫害者が宣教者になったというストーリーはすばらしい神さまの御業として語り伝えられていました。アラビヤでの時、またシリヤ、キリキヤでの十四年間などはパウロが静まって、聖書に聞き直す良いときとなったはずです。 



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