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ガラテヤ 5章1〜6節     2014年3月1日

自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。(1)

 信じるだけでは不十分で、イエスを信じる信仰に生きる人も律法の行いに生きることが、特にその中心として、割礼を受けることが必要だという主張は一見もっともらしく聞こえます。ガラテヤの教会のキリスト者たちの中にも、パウロの言うことももっともだが、律法自体は悪いものではないし、ひとまず割礼を受けておいてもいいかもしれない・・・と軽く受け止める人々がいたことでしょう。しかし、パウロはそこに非常に深刻な問題を感じています。律法の行いによって生きる・・・としたら、律法の全体を完璧に行う必要がある。しかし、それは歴史の中でユダヤ人たちがどうしてもできなかったことです。そして、それは、キリストを捨て、キリストの恵みによって生きるという道からずれているのです。
 キリストは私たちを解放し、自由を与えて下さいました。ですから私たちは主の与えて下さった恵みの自由の中にいつも生き続けるのです。 

ガラテヤ 5章7〜12節     2014年3月2日

兄弟たちよ。わたしがもし今でも割礼を宣べ伝えていたら、どうして、いまなお迫害されるはずがあろうか。そうしていたら、十字架のつまずきは、なくなっているであろう。(11) 

 パウロは主イエス・キリストの信仰による救いを宣べ伝えていました。そして、割礼を受けることによって救われるのではない、と断言しました。そのことは律法を重んじるユダヤ人たちにとっては非常に気にさわることでした。そしてパウロは律法を軽視し、律法を守ろうとする人々の邪魔をすると考えたのです。
 パウロはこの時点では主として、ユダヤ人からの迫害によって苦しめられていました。パウロはそれでも割礼を宣べ伝えることはしません。そこで妥協することは、十字架につけられたキリストなしに救われようとする道を残すことになり、結果として十字架のつまづきを避けることになってしまう。
 割礼はある意味、小さなことだったかもしれません。しかし、そこで妥協してしまうと、主イエスのあがないを信じる受け入れることによって与えられる救いという福音の根幹部分をやがて揺るがすことになってしまう。私たちはどこまでも十字架の救いによって生きるのです。

ガラテヤ 5章13〜15節     2014年3月3日

兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。(13) 

 イエス・キリストはその十字架によって私たちに自由を与えてくださいました。それは罪からの自由であり、律法の行いによって義とされようとする生き方からの自由です。ただそれは同時に、神の恵みがあるのだから、何をしてもよいのだということではありません。私たちは与えられている自由をただ自分が楽しみ、得をするために用いるのではなく、「愛をもって互に仕える」ために用いるのです。
 主に自由を与えられた人は、主イエスがしもべとなって仕えて下さったように、すべての人のしもべとなって生きることができます。それを何か上から命じられて、しぶしぶ、仕方がないからするということではなく、喜んで自由に仕えていくのです。
 互いにいがみ合い、つぶし合い、足を引っ張り合うような関係ではなく、お互いの弱さを担い合い、仕え合うところの交わりが生まれてくる・・・それが教会なのです。 

ガラテヤ 5章16〜24節     2014年3月4日

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。(22〜23) 

 律法の行いによって義とされようとする人は、肉を誇り、肉に従って生きる人です。そして肉は律法を満たすどころではなく、かえって汚れたものを生み出していきます。大切な事は主によって救いをいただいた私たちが神の恵みの内を御霊によって歩くことです。「歩く」とはまさに日々の歩みを意味しています。
 そして御霊によって歩く者たちは、御霊の実を結んでいきます。ここで「実」と訳されている言葉は単数形です。つまり、九つの別々の実があって、その中のいくつかを結んでいるというのではなく、これは一つの実であって、まさに、主イエスの中にあるご性質だと言ってもよいでしょう。
 自分の肉は主イエスと共に十字架にはり付けにされ、今や主イエスのものとされた私たちは、御霊によって実を結んでいきます。それは自己満足のためではありません。主をお喜ばせし、また人々に仕えるためなのです。

ガラテヤ 5章25〜26節     2014年3月5日

もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。(25)  

 ここでは御霊によって生きる私たちは、御霊によって進むのだと言います。私たちはもはや自分の力によって生きるのではありません。御霊によって生かされ、御霊によって一歩一歩進んでいきます。
 パウロは御霊によって進む生き方と対極にある生き方として、「互いにいどみ合い、互いにねたみ合って、虚栄に生きる」生き方を上げています。自分で決断し、自分で努力し、自分の力で道を切り拓いていくことも確かに大切な事です。しかし、同時に、その「自分」が、肉に頼り、肉によって進もうとする自分だとしたら、そこに出てくるのは、競争心であり、ねたみ合い、人の足を引っ張り合う歩みであり、外側は親しく見せながら、本心は全く違うところにあるというような歩みなのです。
 御霊によって進む歩みは、まさに、そのような殺伐とした人間関係の中にあっても、愛し合い、仕え合い、お互いを生かし合うような関係を造り出していくものなのです。



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