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マルコ 7章1〜13節     2012年5月27日

この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる。(6〜7)

 パリサイ人や宗教に対して熱心な人々は主イエスの時代、食事をする前に必ず手を洗いました。それは衛生的な意味以上に宗教的な意味を持つ行為でした。洗っていない手で食事をすると、手についていた「汚れ」が体の中に入ってしまうと考えたのです。これは聖書自体の教えではなく、ユダヤ人たちが受けついできた言い伝えでした。ところが主イエスの弟子たちの中には手を洗わないで食事をする者がいたのです。それを見た宗教家たちは主イエスを非難しました。
 しかし、主イエスは、言い伝えを守ることに熱心なあまり、与えられている神の言の意味しているところを見失ってしまっている当時の人々の姿を批判されます。彼らは「宗教的」になればなるほど、その心が神から遠く離れてしまっている・・・。悲しいことです。
 神が何を願っておられるのか、神の御思いがどこにあるのか、知る者でありたいと思います。


  関連礼拝メッセージ: 2012年7月22日 「心をきれいに」

マルコ 7章14〜23節     2012年5月28日

内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである。(21〜23)

 宗教家たちは、外側の汚れに気を遣いました。汚れたものに触れないように、また汚れたものを食べないように細心の注意をしました。けれども、主イエスは、外から人の中に入って来るものが人を汚すのではない、とおっしゃいました。かえって人の中から出て来るものが人を汚すのだ。そして人の中から出てくる汚れたものを次々に上げられました。
 確かにみんながみんな殺人をするわけではなく、不品行や盗みに身を置くのでもありません。自分はそんな者ではないと、宗教家たちも思ったことでしょう。けれども、人のことを憎んだり、人のものを欲しがったり、淫らな思いを抱いたり・・・という人の心の中にある思いが問題だと主イエスは指摘されたのです。
 具体的な行為だけではありません。心の奥底にある思いまでもきよくなりたいと思います。そしてそれは、人間的な努力でできることではなく、主イエスのきよめの業によってのみ可能となるのです。


       関連礼拝メッセージ: 

マルコ 7章24〜30節     2012年5月29日

すると女は答えて言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。(28)

 主イエスはツロに行かれます。この町は地中海沿岸の貿易港であり、異邦人の町でした。主は「だれにも知られないように」と思われたのですが、それはできませんでした。スロ・フェニキヤ生まれのギリシャ人の女が汚れた霊にとりつかれた自分の幼い娘を助けてほしいと懇願したのでした。この母親がどこで主イエスのことを聞いたのかは分かりません。けれども主イエスのことを聞いた時に、いても立ってもおられなくなって、主イエスのところに押しかけ、その足もとにひれ伏して懇願したのでした。
 けれども主イエスは何とも素っ気ない対応をされます。しかし、この母親は何と言われても、くじけたり、逆ギレしたりしませんでした。かえって、パンくずでもいいからいただきたい、パンくずほどの恵みでも与えて下されば、自分の娘は助かると訴えたのでした。主イエスはこの母親の信仰の姿勢をとても喜ばれました。そして、この娘を救ってくださったのです。


       関連礼拝メッセージ: 2012年8月26日 「小犬の信仰」

マルコ 7章31〜37節     2012年5月30日

そこで、イエスは彼ひとりを群衆の中から連れ出し、その両耳に指をさし入れ、それから、つばきでその舌を潤し、天を仰いでため息をつき、その人に「エパタ」と言われた。これは「開けよ」という意味である。(33〜34)

 主イエスは再びガリラヤ湖の地方に帰ってこられました。人々は、耳が聞こえず口がきけない人を主イエスのところに連れてきました。主イエスはその人の耳を開き、また舌のもつれも解いてくださったのでした。しゃべることができない一つの理由は、耳が聞こえないからです。しっかりと聞くことができないと話すことはできません。ですから、主はまず、この人に「エパタ」と呼びかけて、彼の耳を開き、はっきりと聞くことができるようにしてくださったのです。
 私たちにとってもまず扱われるべきなのは、耳が開かれて、主イエスの言葉をはっきり聞くことができるようになるということです。
 人々は、主イエスの御業を見、そしてそのことを聞いて言いました。「この方のなさったことは何もかもすばらしい」。主イエスは私たちの生涯にもすばらしいことをしてくださいます。


       関連礼拝メッセージ: 


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