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ヨハネ 4章1〜15節     2013年1月16日

しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。(13〜14)

 やがて主イエスに従って行く者が増えて、ヨハネの弟子よりも多くなった時に、主イエスはユダヤを離れてガリラヤに向かわれます。そしてその途中にサマリヤに立ち寄られたのでした。この当時、ユダヤ人とサマリヤ人とは仲が悪かったので、ユダヤ人たちはサマリヤの地方をわざわざ避けて旅をしたほどでした。けれども、ここで主イエスは、あえてサマリヤのスカルという町に立ち寄り、井戸の側に腰を下ろされます。そして弟子たちが食事の買い出しに行っている間に、一人の女性に声をかけられたのでした。
 最初は「水を飲ませてください」という話から始まって、体の渇きを癒す水ではない、魂の渇きを満たすことのできるいのちの水をこの女性に与えようとされたのです。この主イエスが与えて下さるいのちの水は私たちのうちで泉となり、永遠の命に至る水がわきあがります。そしてその泉は決して尽きることはないのです。あなたもこの水をいただきませんか。

ヨハネ 4章16〜26節     2013年1月17日

まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。・・・父は、このような礼拝をする者たちを求めておられる・・・神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。(23〜24)

 このサマリヤの女が「その水をわたしにください」と言った時、彼女が求めていたのはまさに喉の渇きをいやし、煮炊きに使う水でした。けれどももちろん、主イエスが与えようとしておられたのはそれとは違う水です。主イエスは彼女の生活や心の中にある渇きに触れて行かれます。
 彼女は五人の夫がいましたが、今はまた別の人と同棲していました。そのことを言い当てた主イエスに、この女性の見方が変わっていきます。この人は預言者かもしれない・・・それなら聞いてみようと、彼女が普段から疑問になっていたサマリヤ人とユダヤ人の信仰の違いについて尋ねます。しかし、主イエスは、礼拝の場所が問題なのではない、そうではなく、霊とまことをもって礼拝する事こそが大切なのだと諭されます。私たちは霊なる神を、自分の本質的なところで、真実に礼拝することが大切です。そして、それができるようにしてくださるのがメシヤです。イエスこそがその目下なのです。 

ヨハネ 4章27〜38節     2013年1月18日

あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。(35)

 弟子たちが食糧を調達して帰って来て、「先生、召し上がってください」と食物を差し出した時、主イエスは、「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」とおっしゃいました。主イエスを生かし、主イエスに力とエネルギーを与え、喜びに満たすもの・・・それは父なる神さまの御心を行い、それを成し遂げること、もっと具体的に言うと、誰かを神さまのもとに導くことでした。
 けれども、私たちは時に、あの人もこの人もイエスさまを信じないに違いないと思います。まだ福音を伝えるには早すぎると思ったりします。けれども主はおっしゃいます。はや色づいて刈り入れを待っている。
 私たちは何を見ているのだろうかと思います。同じ人々の姿を見ながら、私たちはあきらめて伝えるのをやめ、主イエスは豊かな収穫を見て、働きを進めて行かれるのです。主イエスが見ておられるように、人々を、また世界を見たいと思います。そして信仰をもって働きを進めるお互いでありたいと思います。

ヨハネ 4章39〜42節     2013年1月19日

彼らは女に言った、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救主であることが、わかったからである」。(39)

 この女性は水をくむ水がめを井戸の所に置いたまま、町の中に走って行き、人々に主イエスのことを伝えます。「この人がキリストかもしれません」。町から出て来た人々は主イエスのところに来て、女の言った言葉を通して、主イエスを信じます。さらに多くの人たちが主イエスの言葉を聞いて信じていきます。ユダヤ人たちの多くが受け入れなかった主イエスを、短い時間の内に多くのサマリヤ人たちが信じ受け入れたのです。そして、人々はこの女に、自分たちはあなたから聞いて出て来たけれども、今は自分自身で親しく聞いて、この方こそ、本当に世の救い主であることが分かったのだと言います。
 私たちは人々に主イエスを紹介します。けれども私たちが願っているのは、人々が私たちに説得されて私たちに感謝することではなく、人々が主イエスに親しく聞くようになって信じることなのです。

ヨハネ 4章43〜45節     2013年1月20日

イエスはみずからはっきり、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と言われたのである。(44)

 サマリヤで大リバイバルを経験し、多くの人たちが主イエスの話を喜んで聞き、主イエスを救い主メシヤと信じ、受け入れ、二日も予定になかった滞在をなさった主イエスでしたが、さらに北上して、自分が育ったガリラヤの町に戻られます。しかし、主イエスはご自分がガリラヤで敬われないことを知っておられました。昔から、預言者は自分の故郷では敬われないものであることを主イエスは知っておられたのです。
 実際にはイエスの言葉に反して、確かにガリラヤの人たちは主イエスを歓迎します。けれどもそれは、エルサレムで主イエスがなさった数々の奇跡を見聞きしていて、自分たちの目の前でもそのことをしてほしいという興味から出た関心でした。主イエスが嘆かれたのは、人々が自分に関心を持たなかったということではありません。自分に聞き、自分をメシヤ、救い主として信じようとしなかったということなのです。主イエスは単なる不思議を行う人、スーパースターではないのです。 

ヨハネ 4章46〜54節     2013年1月21日

彼は自分に言われたイエスの言葉を信じて帰って行った。(50)

 主イエスがガリラヤのカナに行かれた時、カペナウムから一人の父親が来て、カペナウムに来て、病気の息子を救ってほしいと懇願しました。子どもが高熱で苦しみ、死にそうになっていたのです。カペナウムからカナまでは四十キロほどですから歩いてほぼ丸一日の行程になります。この父親は主イエスがおられると聞いて、とんできたのです。
 イエスはこの父親とカペナウムに行くことはせず、「お帰りなさい。あなたの息子は助かるのだ」とおっしゃい
ます。この父親は、自分に言われた主イエスの言葉を信じて帰って行ったのでした。その途中で彼はちょうど主イエスがその言葉を語られた時刻に、息子の熱が引き始めたという話を聞いたのでした。
 自分に言われた主イエスの言葉を信じて生きる・・・それが私たちに求められていることです。主イエスが語られたら必ずそのとおりになるからです。私たちはただ信じて従えば良いのです。


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