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ヨハネ 19章1〜16節     2013年3月30日

イエスはいばらの冠をかぶり、紫の上着を着たままで外へ出られると、ピラトは彼らに言った、「見よ、この人だ」。(5)

 ピラトは主イエスの内に何の罪も認めません。そのことをピラトは何度もユダヤ人たちに語っています。ピラトはできるだけ事態を穏便に済ませたいと思っていたのでしょう。いつもの過越の祭の習慣通りに、恩赦を与える囚人として主イエスを釈放しようとします。しかし、ユダヤ人たちがそれを拒まんだ時に、今度は主イエスをむち打ち、頭にいばらの冠をかぶらせ、紫の衣を着せてユダヤ人たちの前に引き出します。それだけひどい目にあわせたら、それで満足するだろうと考えたのかもしれません。しかし、主イエスを見た宗教家たちは「十字架につけろ!」と叫ぶのでした。そして彼らはピラトに対してこう断言します。「わたしたちには、カイザル以外に王はありません」。イスラエルにおいては、主こそが真の王とされてきました。しかしここで、彼らは、その主なるお方を拒絶し、捨てるのです。しかし、私たちの王は、十字架にかかって私たちのためにあがないを全うして下さった主イエスおひとりです。

ヨハネ 19章17〜22節     2013年3月31日

ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上にかけさせた。それには「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書いてあった。・・・それはヘブル、ローマ、ギリシヤの国語で書いてあった。(19〜20)

 主イエスが罪のないお方であることは明らかでした。総督ピラトもそのことを知っていましたし、また主イエスを訴えていた宗教家たちもおそらくそのことは承知していたでしょう。しかし、彼らは罪のないお方を十字架に引き渡します。主イエスは自ら十字架を背負ってゴルゴダ(されこうべ)の丘に上られたのでした(「カルバリ」はされこうべのラテン語訳)。主イエスは他の二人の強盗と一緒に十字架につけられます。十字架刑はすぐに死ぬことはできません。苦しみ抜き、時間をかけてゆっくり死んでいくのです。主イエスの頭の上には、ヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書かれていました。ヘブル語はユダヤ人たちの言葉、ラテン語は世界を治めていたローマの言葉で政治の言葉であり、法律の言葉でした。そしてギリシャ語はその当時の地中海世界全体で通じた生活の言葉でした。祭のために世界中から集まって来たいた人々は皆、この言葉を読みました。主は私たちの王でもあるのです。

ヨハネ 19章23〜27節     2013年4月1日

イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母にいわれた、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。(26〜27)

 主イエスが十字架の上で苦しんでおられた時、その十字架の下では兵士たちが主イエスの衣を分け、またくじびきにしていました。これは詩篇二二18の成就でもありました。主は私たちに、すべてを与えつくされたのです。
 主イエスの十字架のそばにはイエスの母マリヤや他の女たちもいました。母マリヤにとって、自分の息子が十字架にはり付けられてはずかしめられ、苦しみながら死んで行くのに何もすることができない、というのはどんなにつらいことだっただろうかと思います。
 主イエスはその苦しみの中で、母マリヤを認め、また愛弟子(おそらくヨハネ)がいるのを認めて、母マリヤに「ごらんなさい、これはあなたの子です」とおっしゃり、また愛弟子に「ごらんなさい、これはあなたの母です」とおっしゃって、マリヤを愛弟子に託されたのでした。ヨハネは最後まで母マリヤのお世話をしたといわれています。主イエスは苦しみの中にあっても悲しむ者への配慮を忘れられなかったのです。

ヨハネ 19章28〜30節     2013年4月2日

そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。(28)

 主イエスは万事が終わったことを悟られました。それはその後の「すべてが終わった」という十字架上の言葉と重なるのですが、決してあきらめの叫びではなく、「完了した」「成し遂げた」という意味です。主イエスは、十字架の上で私たちの罪を身代わりに負って、苦しんでくださり、神の呪いと裁きをになってくださいました。私たちは自分で自分を救うことはできません。けれども、主イエスは十字架の上で、私たちの救いのために必要なことをすべて成し遂げてくださったのです。
 主イエスは「わたしは、かわく」とおっしゃいます。確かに十字架刑はとても大きな渇きを体に与えます。ただこれは私たちの罪を負って、神から捨てられてくださった主イエスの霊的な渇きの叫びとも言えます。まさにあの叫びは私たちが叫ばなければならない叫びでした。しかし、主イエスが渇きをになってくださったゆえに、「わたしを信じる者は決してかわくことがない」(ヨハネ六35)との主の言葉が私たちの上に成就したのです。

ヨハネ 19章31〜37節     2013年4月3日

しかし、ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た。それを見た者があかしをした。そして、そのあかしは真実である。・・・それは、あなたがたも信ずるようになるためである。(34〜35)

 十字架刑は非常に残酷な処刑法で、犯罪者をじっくり苦しめて死なせるという、見せしめの要素も大きかったことでしょう。犯罪人はじわじわと弱っていき、絶命するのに三日かかることもあったと言います。過越の祭をひかえていたユダヤ人たちは安息日に死体を残しておくことを嫌って、処刑を早める要請をします。その場合には足の骨を折ることによって、絶命させることができました。そして二人の強盗の足が折られ、彼らは死にます。
 けれども主イエスはすでに死んでおられました。兵卒は主イエスの足を折ることはせず、その脇腹をやりで突き刺しました。その傷跡から血と水が分かれて出ました。これは極度の苦しみによって生じる現象だと言います。これらのことが起こったのは旧約聖書の成就するためでした。主イエスは苦しみを担い、私たちのために確かに死んでくださったのです。ヨハネは十字架の様子を書き留めながら、このお方を信じるようにと迫るのです。

ヨハネ 19章38〜42節     2013年4月4日

そののち、ユダヤ人をはばかって、ひそかにイエスの弟子となったアリマタヤのヨセフという人が、イエスの死体を取りおろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトはそれを許したので、彼はイエスの死体を取りおろしに行った。(38)

 主イエスが息を引き取られた時、アリマタヤのヨセフがピラトのもとに出向いて、主イエスの遺体の引き取り方を願い出ます。ヨセフはユダヤの町アリマタヤの出身で、ユダヤ人議会の議員でした。彼は主イエスを死刑にした議会の決定には賛成していませんでした(ルカ二三31)。実際、彼は神の国を待ち望み、主イエスをメシヤと信じ、主イエスの弟子としての自覚がありました。けれども同時に、ヨハネは、このヨセフは「ユダヤ人をはばかって、ひそかに弟子になった」と言います。
 けれども、この主イエスの死ということを見つめながら、彼はとても大胆な行動に出ます。主イエスはユダヤ人議会では神を冒?する者として、またピラトの法廷では皇帝に対する反逆者として死刑を宣告されたのです。主イエスの味方、身内のような行動を取ることは自分の政治的宗教的立場に決してプラスとは思えません。しかし、彼はニコデモと共に、ここで主イエスの弟子としての証しを立てたのでした。



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