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ルカ 24章1〜12節     2012年12月27日

あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。(5〜6)

 「週の初めの日」というのは日曜日のことです。金曜の日没から土曜の日没までは安息日で何もすることはできません。その意味でこの女たちは自分たちができるまさに最善をしたと言ってよいでしょう。主イエスのお体に塗ろうと用意していた香料を携えて墓に急いでいました。けれども、墓に着いた時、驚いたことに墓の入り口に置かれていた大きな石が脇に転がされ、墓の中は空っぽになっていました。
 女たちが途方に暮れているとそこに二人の御使が現れます。そして女たちに言うのです。「なぜ生き方を死人の中にたずねているのか」。彼女たちは主イエスを愛していました。主イエスに仕え、主イエスのために自分たちができる最善をしたいと願っていました。その動機はとても純粋であり、主イエスへの愛にあふれていました。けれども彼らには大きな間違いがありました。主は遺体ではなく、生きておられたのです。私たちは。死を打ち破ってよみがえり、今も生きておられる方に仕えるのです。

ルカ 24章13〜32節     2012年12月28日

彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。(32)

 ふたりの弟子たちがエルサレムからエマオへと歩いていました。彼らはすでに女たちから主イエスの墓が空であり、御使に「イエスは生きておられる」と告げられたというニュースを聞いていました。また、仲間の数人も墓に行って、墓が空だったという女たちの証言を確認していました。けれども、彼らは主イエスがよみがえられたというニュースを全く信じていませんでした。ですから主イエスが途中から彼らと一緒に歩いていかれても、それが主イエスであることに気づかないほどでした。不信仰は私たちの目をそこまでくらませてしまうのです。
 一緒に道を行かれた主イエスは、彼らにキリストが苦難を受けた後に栄光に入られる、よみがえられる、ということは旧約聖書の約束だったと、聖書をひもといてお話しになったのでした。二人の心が内に燃えていきます。そして、主イエスが食卓について、パンを裂いて渡された時に、それが主イエスであることが分かったのでした。十字架の前の夜の最初の聖餐式を思い起こしたのかもしれませんね。

ルカ 24章33〜42節     2012年12月29日

こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。(36)

 二人はすぐに今来た道をエルサレムに戻り、他の弟子たちによみがえられた主イエスにお会いしたことを話しました。エルサレムでも主イエスがシモン・ペテロにご自身を表されたという話で盛り上がっていました。けれどもほとんどの弟子たちはまだ信じられません。しかし、今度はそこに主イエスが来られて彼らの中にお立ちになったのでした。主イエスはご自身の手や足をお見せになりました。そこには生々しい釘の跡が残っていたことでしょう。弟子たちはそれでも信じられなかったと聖書は言います。そこで主イエスは焼いた魚を弟子たちの前でお食べになったのでした。
 主イエスは、死を打ち破り、今も生きておられます。そして、目には見えませんが、今も私たちの真ん中にいてくださるのです。私たちは日々の歩みの中で、おじ惑ったり、疑いを起こしたり、不思議に思ったりしないで、よみがえられた主を信じるべきです。主イエスのよみがえりは確かな事実だからです。

ルカ 24章44〜49節     2012年12月30日

あなたがたは、これらの事の証人である。見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。(48〜49)

 ユダヤ人たちは旧約聖書を三つに分類しました。律法と預言者と諸書です。ですから、ここで「モーセの律法と預言書と詩篇」と書かれているのは旧約聖書全体を意味しています。主イエスは十字架の前にも、この旧約聖書はわたしについて書いてあるのであり、またそれは必ず成就するということを言っておられました。そして、よみがえってからも、聖書をひもといて、「こう、しるしてある」と弟子たちを教えられたのでした。主イエスの受難も復活も聖書に書いてある通りでした。けれども、それでは終わりません。罪のゆるしを得させる悔い改めがもろもろの国民に宣べ伝えられる・・・そして、それはどのようにして起こるのか。それはまさにそこにいる弟子たちが主イエスの証人として生きることによって起きるのです。けれども、だからといってすぐに飛び出していってはなりませんでした。父が約束されたものを上から与えられることがまず大事でした。それこそが「聖霊」というお方だったのです。

ルカ 24章50〜52節     2012年12月31日

それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。(50)

 主イエスはエルサレムの東側のベタニヤの近くまで弟子たちを連れて行き、そこで手を上げて、彼らを祝福されました。主イエスは弟子たちを祝福しつつ天に帰って行かれました。そして、その主イエスの祝福は弟子から弟子へと受け渡されていって、今、私たちもまた主イエスの祝福の下にいます。そして、私たちは今度はまた誰かを祝福して生きるようにと召されているのです。
 主イエスは弟子たちが見ている前で天に上げられていきました。弟子たちはそれ以降、主イエスを目に見える形で拝することはありませんでした。けれども、彼らは非常な喜びをもってエルサレムに戻り、絶えず人が集まる宮にいて、神をほめたたえていました。その姿は、主イエスの復活を信じ、主イエスによってもたらされた罪の赦しの福音を信じる者にまことにふさわしいことでした。弟子たちはもはや、家に閉じこもり鍵を閉めて震えてはいませんでした。十字架につけられたイエスは確かによみがえり、私たちに救いをもたらしてくださった主の主なのだということを弟子たちは知っていたからです。


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