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ルカ 2章1〜7節     2012年8月5日

ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。(6〜7)

 マリヤは月を暈ね出産の時期が近づいてきました。当然、マリヤもヨセフもこのままナザレでの出産ということを考えていたことでしょう。けれども神はずっと前からその救い主がダビデの故郷であるベツレヘムで生まれるということを予告しておられました。そして、神はローマ皇帝までも動かして、ご自身の御言を成就されました。
 皇帝アウグストの勅令によって、世界中の民が自分の本籍地に戻りました。ヨセフはダビデの血筋を引いていましたのでベツレヘムで登録をしなければなりません。身重の妻がいるということも言い訳にはなりませんでした。そして、ベツレヘムでマリヤは救い主イエスを産んだのでした。
 ただ、ベツレヘムは人でいっぱいで、彼らが泊まる客間、余地はありませんでした。神の子なるお方が馬や牛のいる場所で生まれ、飼葉おけに寝てくださったのです。

ルカ 2章8〜14節     2012年8月6日

恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。(10〜11)

 イエスさまがベツレヘムでお生まれになった時、その知らせを受けたのはただ貧しい羊飼いたちだけでした。羊飼いはその職業の性格上、安息日を厳密に守ることはできません。彼らは社会的・宗教的に見下げられることが多かったようです。けれどもそんな彼らに主の御使が遣わされます。
 御使は恐れる彼らに告げました。恐れることはない、見よ、すべての民に与えられる大きな喜びをあなたがたに伝える。それは貧しく、地位もなく身分も低い彼らにも与えられる大きな喜びの知らせでした。きょう、あなたがたのために、救い主がお生まれになった、というのです。
 その救い主にはしるしがありました。布にくるまって飼葉おけに寝かされているというしるしでした。それはまさにこの救い主が歩もうとする十字架の生涯を暗示するものでもありました。天の軍勢が神を賛美します。歴史の流れは新しい局面を迎えたのです。

ルカ 2章15〜20節     2012年8月7日

御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。(15)

 御使たちが羊飼いたちを離れていった時に、彼らは今自分たちが見たもの、そして聞いたことをもう一度思い起こしつつ状況を整理したに違いありません。御使が伝えたのは救い主が来てくださったという知らせでした。しかもその救い主の誕生は貧しい名もない羊飼いたちにも与えられる大きな喜びの知らせでした。
 赤ちゃんはダビデの町、つまりベツレヘムです。ベツレヘムの町がごった返していることは彼らも知っていたことでしょう。どのように赤ちゃんを捜せばよいでしょう。飼葉桶に寝かしてある赤ちゃんです。彼らは急いで行って救い主を捜します。大体、赤ちゃんが飼葉桶に寝かされている、というのはとても不思議な光景です。しかし、御使が伝えた通りの赤ちゃんを彼らは見付けたのでした。
 彼らは神をあがめ、さんびにしながら帰って行ったのでした。残念なことにこの羊飼いたちの話をまともに信じる人はいませんでした。救い主を受け入れる人は今も多くはないかもしれません。けれども受け入れた人は大きな喜びに満たされるのです。

ルカ 2章21〜35節     2012年8月8日

主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます、わたしの目が今あなたの救を見たのですから。(29〜30)

 律法によるきよめの期間とは、男の子を産んだ場合には八日目の割礼がすんでから三三日ということになっていました(レビ十二章)。これは女性が産後、体を休めるための期間でもあったのでしょう。この期間が明けて、両親は幼な子の主イエスを連れて宮に上ります。
 ちょうどその時、御霊に感じてシメオンが神殿に入ってきました。この人は信仰深く正しい人であり、救い主を心から待ち望んでいました。彼のうちには聖霊が宿っていました。そして、救い主に会うまでは死ぬことはないと示されていました。つまり、彼が生きている間に救い主は来る、救い主が来るのがそれほど近づいている、ということを知っていたのです。彼は、主イエスがもたらしてくださる救いのために母マリヤの胸が刺し貫かれるようなことが起こることを告げます。
 彼にとって、もはやこの地上にこだわる理由は全くありませんでした。救い主にお会いすることができたからです。彼は心から神をほめめたたえるのです。

ルカ 2章36〜39節     2012年8月9日

この老女も、ちょうどそのとき近寄ってきて、神に感謝をささげ、そしてこの幼な子のことを、エルサレムの救を待ち望んでいるすべての人々に語りきかせた。(38)

 シメオンが主イエスを抱いて神を賛美し、あがめていた時、八四歳の女預言者アンナが主イエスに近づいてきます。彼女は若くして夫を失い、ずっとやもめ暮らしをしながら、いつも宮にいて、夜も昼も断食と祈りをもって神に仕えていました。
 このアンナも主イエスに近づいて、神に感謝しました。彼女も、この幼な子が神が約束され、イスエラエルがずっと待ち望んでいたメシヤであることが分かったからです。
 彼女は神殿で、救い主なる幼な子に会ったことを、エルサレムの人々に語り聞かせました。エルサレムには救い主を待ち望んでいた多くの人たちがいたはずです。けれども、一体どれだけの人がアンナの話を聞いて、救い主の到来を信じたでしょうか。どれだけの人がその幼な子を自分も礼拝したいと願い、行動を起こしたでしょうか。人々は不思議な事だ・・・というところでとどまってしまったのです。私たちはどうでしょうか。

ルカ 2章40,52節     2012年8月10日

幼な子は、ますます成長して強くなり、知恵に満ち、そして神の恵みがその上にあった。(40)

 イエスさまは両親の故郷ナザレで成長していかれました。ナザレは南部のユダヤ地方からすると田舎であり、言葉がなまっているし、いわゆる国をリードしていくような人物は出ないと言われるような土地でした。けれども、主イエスはそこで育っていかれました。
 主イエスの成長には三つの側面がありました。一つは身体的成長です。「成長して強くなり」「背たけも伸び」とある通りです。主イエスはいつも勉強しかしなくて、ひょろっとして弱々しいといった人物ではなかったでしょう。イエスは三十歳まで大工として仕事をされていたほどです。
 第二に主イエスは知恵を身につけていかれました。聖書の中では、「知恵」とは単にテストで高得点を取れるというようなことではなくて、神を畏れ、与えられた生涯を賢く生きていくために必要なものです。
 そして第三に、主イエスは人との間においても、神との間においても良い関係を築き上げていかれました。だから神と人から愛され、神の恵みの下で成長していかれたのです。 

ルカ 2章41〜51節     2012年8月11日

するとイエスは言われた、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」。(49)

 マリヤとヨセフは毎年過越の祭にはエルサレムに礼拝に上っていました。ここにはイエスが十二歳の時のエピソードが残されています。十二歳というとイスラエルでは、今日でもバル・ミツバと言って、子どもたちの成人儀礼が行われます。その意味ではこの時の都上りは一家にとってとても特別なものだったのかもしれません。
 ところがそこで大変なことが起こります。マリヤとヨセフが帰り道、イエスが一緒にいると思い込んで一日路を行ったところが、イエスが見当たらず、エルサレムに戻って探し回って、とうとうエルサレムの神殿の中で教師たちの真ん中に座って話を聞いたり質問したりしているイエスを見つけたのでした。
 けれども、主イエスは、「わたしが自分の父の家にいるのに・・・」と答えられたのでした。両親は、主イエスが単に自分たちの息子というのではない、自分たちが神の子、救い主を預けられているのだということを再確認しなければならなかったのです。



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