chuo@8008amen.com


バックナンバー

旧約聖書
新約聖書
マタイによる福音書
マルコによる福音書
ルカによる福音書
(章) 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
  11 12 13 14 15 16 17 18
  19 20 21 22 23 24
ヨハネによる福音書
使徒行伝
ローマ人への手紙
コリント人への第一の手紙
コリント人への第二の手紙
ガリラヤ人への手紙
エペソ人への手紙
ピリピ人への手紙
コロサイ人への手紙
テサロニケ人への第一の手紙
テサロニケ人への第二の手紙
テモテへの第一の手紙
テモテへの第二の手紙
テトスへの手紙
ピレモンへの手紙
ヘブル人への手紙
ヤコブの手紙
ペテロの第一の手紙
ペテロの第二の手紙
ヨハネの第一の手紙
ヨハネの第二の手紙
ヨハネの第三の手紙
ユダの手紙
ヨハネの黙示録
ルカ 15章1〜7節     2012年11月6日

あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。(4)

 取税人や罪人たちが主イエスのもとに集まって来ました。イエスの話を聞きたいと思ったのです。主イエスはきよい方です。その主イエスのもとに行ったら自分の罪が示されて居心地が悪くないかと思います。けれども、宗教家たちのところには近づかなかった彼らが主イエスのところには集まって来ました。しかし、パリサイ人・律法学者たちは、そのことで主イエスを非難します。イエスが彼らを受け入れ、一緒に食事をしておられたからです。十五章の三つのたとえはそのような文脈の中で語られました。
 百匹の羊を持っている人にとって、一匹はとても小さい存在であるように思います。けれどもその羊飼いは他の羊を置いておいても、見つけるまで捜し歩くというのです。まさにそれは罪人を捜し求める神の姿です。そして見つけたら、大喜びで連れ帰り、人々と共に喜ぶ。ひとりでも悔い改めるなら、天では大きな喜びがあるのです。

ルカ 15章8〜10節     2012年11月7日

また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。(8)

 二つ目のたとえです。この女が持っていた銀貨は婚約相手から渡されていた十枚のうちの一枚だっただろうと言われています。それは代わりのきかない一枚です。確かにその部屋の中にあるのです。けれども、手元を離れてどこかにいってしまった。手元になくても、銀貨は銀貨です。価値が減るわけではありません。ただその銀貨はその女性の手の中にあって始めてその意味をもつのです。
 私たちも同じです。神は私たちを良いもの、すばらしい価値を持つものとして造ってくださいました。でも、私たちが神のもとを離れてしまったら、その意味を失ってしまう。
 彼女も見つけるまで探し回ります。そして見つけたとき、大きな喜びに満たされます。前のたとえとも共通しているのは大きな喜びです。私たちが主を信じた時にも神の御使たちの前で大きな喜びがあったのです。

ルカ 15章11〜24節     2012年11月8日

しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。(22〜23)

 この弟息子は財産の分け前をもらうと、そそくさと荷物をまとめて遠い町に旅立ちます。けれどもそこで湯水のようにお金を使って遊び暮らし、とうとう豚飼いに身を持ち崩します(イスラエル人は豚は食べません。汚れているとされているからです)。それでも食べるものがなくて飢えて死にそうになったときに、彼は本心に立ち帰ります。自分は天に対しても、父親に向かっても罪を犯した、その結果このような惨めな姿になってしまった。自分は父親のもとに帰るべきだと思ったのです。
 一方、父はずっと彼の帰りを待っていました。そして、彼が帰っていくるのを見て、遠くから走り寄り、彼を抱いて何度も接吻をします。父親は彼のことを自分の子として迎え、彼の汚れてボロボロになった衣を脱がせて最上の衣を着せ、履き物を履かせ、指輪をはめさせて、子牛をほふらせ、パーティーをするのです。神は、私たちが悔い改めて神のもとに帰る時に、私たちのことを子として、喜び迎えてくださるのです。

ルカ 15章25〜32節     2012年11月9日

すると父は言った、「子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ・・・」。(31)

 弟息子が帰ってきたとき、兄は畑で仕事をしていました。ところが家から歌や踊りの音が聞こえてくるのを聞き、自分の弟が帰ってきて、喜んだ父親が祝宴を開いていると聞いた時に、怒り狂います。家に入ってこようともしない兄を心配して父親が出てくると、この兄は父親に対して不満を爆発させるのでした。兄は父親に、自分は自分は一度も言いつけに背いたことはないのに、一度も良くしてもらったことはない、と言うのでした。
 この兄の言葉は父親の心を深く傷つけます。あなたはいつもあなたと一緒にいる。またわたしのものは皆、あなたのものだ。けれども兄は自分がどんなに大きな祝福の中に置かれているかを理解していなかったのです。この兄の姿はまさにパリサイ人・律法学者たちの姿でした。悔い改めて、神の憐れみを求めて集まって来ている罪人たちがいるのに、そのことを喜ばないで、不満を言っている。神の心も、その喜びも理解できない。近くにいながら、その心は神から遠く離れていたのです。


礼拝メッセージ
毎週日曜日の
礼拝での
メッセージから


生活の処方箋
日々を楽しく過ごす
ためのヒントが
ここに