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ルカ 9章1〜5節     2012年9月24日

それからイエスは十二弟子を呼び集めて、彼らにすべての悪霊を制し、病気をいやす力と権威とをお授けになった。また神の国を宣べ伝え、かつ病気をなおすためにつかわして・・・(1〜2)

 主イエスは十二弟子を呼び寄せて、彼らに大切な仕事を託されました。主イエスが一人で町々村々を巡り歩くのではなく、弟子たちに神の国を伸べ伝えるという大切な仕事をゆだねられたのです。遣わすにあたって、主イエスは弟子たちに権威を与えて下さいました。それは悪霊を制し、病気をいやす力です。今も、この世における私たちの信仰生活は悪魔との戦いです。悪魔は巧妙に私たちを欺こうとし、また多くの人たちを罪の力の元に置いておこうとします。けれども、私たちを遣わされる主は、また目には見えなくても、私たちと共に行ってくださる主は、私たちを悪魔のたくらみから守り、その支配を打ち破ってくださいます。
 主は、主の用のために、主にあって遣わされる者は、すべての必要が満たされることを約束してくださいました。そして、弟子たちが出て行ったとき、主がおっしゃっていたとおりのことが起こったのでした。

ルカ 9章6〜9節     2012年9月25日

この人は、いったい、だれなのだろう。(9)

 領主ヘロデは、主イエスのことが評判になって、そのことが自分の耳にも届いてきたときに、「あわて惑って」いました。彼には恐れがありました。「ヨハネが死人の中から生き返ったのだ」と言う人たちもいたからです。もちろん、ヘロデはヨハネのわけはない、と思っていました。確かにヨハネは自分が命じて首を切らせたからです。ヘロデ自身もヨハネの首が盆にのせられてもって来られるところを見ました。
 ヘロデはヨハネが語ることがすべて正しいことを知っていました。正しさということでは、自分ではなく、ヨハネの言うことが正しかったのです。しかし、彼は領主として、ヨハネを野放しにしておくこと、自分の批判を続けさせることはできませんでした。そして、ヘロデ自身の思いではなかったかもしれませんが、ヨハネを処刑しました。罪を犯し、間違ったことをし続けている人の心には平安がありません。
 「この人はいったい誰なのだろう」。彼は主イエスに会ってみたいと思いました。そして後にそのことは実現します。しかし、ヘロデは不思議な気持ちになりながらも最後まで悔い改めることも、信じることもしなかったのです。

ルカ 9章10〜17節     2012年9月26日

イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせた。みんなの者は食べて満腹した。そして、その余りくずを集めたら、十二かごあった。(16〜17)

 主イエスに遣わされた弟子たちがそれぞれの伝道旅行から帰って来ました。主イエスは弟子たちを連れて寂しい所に退かれます。けれども、群衆は主イエスについてきます。主イエスは彼らに神の国を伝え、また病気を癒されました。しかし、やがて日が傾いてきます。解散を進言する弟子たちに、主イエスは「あなたがたの手で食物をやりなさい」とおっしゃいます。けれども弟子たちの手元にあったのは五つのパンと二匹の魚だけでした。
 主イエスは、この五つのパンと二匹の魚を手にとって祝福されます。そして祝福を受け、主イエスによって裂かれたパンは弟子たちを通して群衆に配られていったのでした。みんなが満腹しました。奇跡が起こったのです。あんな少しのパンと魚でしたが、主の手に置かれ、祝福されたときに、全ての人の満腹につながったのでした。まさにあり余る祝福がそこにはありました。そして主イエスがおっしゃったように、弟子たちもまた自分たちのの手を用いて、主のお手伝いをしたのでした。

ルカ 9章18〜27節     2012年9月27日

それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい・・・」。(23)

 主イエスは一人で祈っておられました。自分の公生涯が終わりに近づいていることを感じておられたのかもしれません。お祈りが一段落した時に、弟子たちにまず、人々が自分の事をどのように言っているかを尋ねます。そして続いて、今、ここでこれをはっきりとさせなければならないというかのように弟子たちに問われます。「それでは、あなたがたはわたしを誰というか」。「神のキリストです」。弟子たちの答えは主イエスを満足させるものでした。
 しかし同時に、このことは、主イエスの公生涯が新たな段階に入っていくことを示すサインでした。主イエスはこの時を境に、受難の予告をされます。それは弟子たちの聞きたくないメッセージでした。けれども主イエスは、弟子たちに対しても、自分の十字架を負って従うようにと招かれたのでした。それはまさに日々の決断であり、日々の服従を必要とすることです。主はそこに私たちを招いておられるのです。

ルカ 9章28〜36節     2012年9月28日

すると見よ、ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであったが、栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである。(30〜31)

 主イエスが十字架の予告を始められてから八日目。その日、主イエスはペテロとヨハネとヤコブの三人を連れて山に登られます。そこで祈るためでした。そこで祈っておられる間に主イエスの姿が変わっていきます。そしてまばゆいほどに白く輝いていかれました。まさにそれは主イエスの本来の姿の片鱗が表されたと言ってもよいでしょう。弟子たちは後々までこの日の出来事を忘れることはありませんでした。
 弟子たちが見ているとそこにモーセとエリヤが現れて三人で話を始めました。モーセは「律法」を、エリヤは「預言者」を代表する人物で、まさに旧約聖書の代表人物たちと言えます。また彼らは共にイスラエルが危機の時に民を率いて救いに導いた人物でした。そして三人は、主イエスがエルサレムで遂げようとされている「最後のこと」、つまり主イエスがもたらそうとしておられる救いの出来事について語っていたのです。それは弟子たちだけでなく、主イエスご自身にとっても大切なことでした。

ルカ 9章37〜45節     2012年9月29日

イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか、またあなたがたに我慢ができようか。あなたの子をここに連れてきなさい」。(41)

 すばらしい山の上の経験の後に、主イエスと三人の弟子たちが下に降りてくると、そこは大変な騒ぎになっていました。主イエスが来られたことに気づいた一人の男が、今までのいきさつを説明します。お弟子さんたちではできないので、イエスさま何とか助けて下さいませんか・・・。父親としては必死だったと思います。ただ、主イエスは、この男の子を取り巻く人々の中にどうしようもない不信仰を見抜いておられました。野次馬的な思いで主イエスにできるかどうか見てやろうという群衆、弟子たちも主イエスも一気に窮地に追い込むためにこの状況を利用しようとする宗教家たち、そして、イエスにもできないかもしれないと不安になる父親・・・いったいそこには神を信じ、神に期待し、一途に神に求める人はいないのだろうか。主イエスは、私たちにも偉大な神に信頼する信仰を期待しておられるのではないでしょうか。

ルカ 9章46〜48節     2012年9月30日

だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。(48)

 弟子たちの間で議論が始まります。だれが一番偉いかという議論です。そこで弟子たちの中にあったのは、自分が一番偉い、または偉いと認めてもらいたいという思いであり、また少なくとも、あの弟子よりは自分の方が上だという思いだったことでしょう。もちろん、イエスさまが絶対的に一番なのは異論がありません。でもそれなら次はだれか、弟子の中で誰が一番かということなのです。
 主イエスは彼らの心の中を見抜かれます。そしてひとりの幼な子を取り上げて自分のそばに立たせられます。その当時は子どもの権利は軽んじられ、子どもは数にも入れてもらえないという状況でした。けれども、誰が一番偉いかと議論している弟子たちに、主イエスは、社会的にも軽くしか見られていない子どもたち、またそのような小さなものを受け入れるということでないと、イエスを受け入れたことにはならないと指摘されます。そしてまた、一番小さい者が実は一番大きいと、神の国の逆転を語られたのでした。

ルカ 9章49〜50節     2012年10月1日

イエスは彼に言われた、「やめさせないがよい。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである」。(50)

 誰を受け入れて誰を受け入れないか・・・主イエスは社会的に身分の高い人をだけを受け入れるというのではなく、幼な子を受け入れるようにと教えられました。しかし弟子たちの心はとても狭かったようです。ヨハネは主イエスに、自分たちの仲間ではない人が、イエスさまのお名前を使って悪霊を追い出しているのを見たので、止めさせたと報告します。
 しかし、主イエスは、やめさせなくてよい、とおっしゃいます。少なくとも、彼らは主イエスに反対したり、主イエスをおとしめようとする人ではない。主イエスのお名前の力を信じて、それを唱える者は、味方だとおっしゃるのです。もちろん、その人は主イエスについてもよく知らず、また、自分がしていることがどういうことかも十分には理解していなかったでしょう。しかし、その人は主イエスの名を用いる中で、そのお名前に、またそのお名前をもつお方に偉大な力があることを知ることになるのです。
 また、私たちの周りに、クリスチャンではないけれども、理解し、協力してくれる多くの人たちがいることもまた感謝したいと思います。

ルカ 9章51〜56節     2012年10月2日

弟子のヤコブとヨハネとはそれを見て言った、「主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」。イエスは振りかえって、彼らをおしかりになった。(54〜55)

 主イエスは並々ならぬ決意をもってエルサレムに向かおうとしておられました。そのことは弟子たちにも伝わっていたことでしょう。ただ弟子たちの理解は、ついにイエスはエルサレムで一旗揚げる決断をされたのだということでした。けれども主はそこで十字架にかかって贖いの死を遂げようとしておられたのです。
 その途中に主イエスはサマリヤの町に立ち寄ろうと、使者を先に遣わされました。しかし、エルサレムに行く途中だとと聞いたサマリヤの人たちは主イエスを迎えようとはしませんでした。主イエスと一行は他の村に向かいます。
 けれどもヨハネとヤコブは怒りがおさまりません。主イエスに「天から火を下して・・・」と進言します。しかし、主はそのようなことは望んでおられませんでした。主を受け入れないのは、サマリヤ人もユダヤ人も変わりません。そして実は、私もそうだったのです。この短気なヨハネとヤコブですが後には、主の恵みによって愛の人に変えられていきます。

ルカ 9章57〜62節     2012年10月3日

イエスは言われた、「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」。(62)

 主イエスについてきたいと志願する人たちもいましたし、また主イエスが自ら声をかけられた人たちもいましたが、ここで主イエスは弟子として生きるには覚悟がいるということを語っておられます。主イエスに従って行くと、この世的な安定や豊かさを得ることはできないかもしれません。主は、「人の子には枕する所がない」とさえおっしゃいました。
 また、主イエスに従って行くと、親のお葬式にも出ることができないかもしれません。実際、海外に出て行く宣教師たちは今でもそのような覚悟が必要です。
 加えて、主イエスに従うという決断をしてから、その前にあれとこれをしてからと思っていると、やがてその決断を見失ってしまうかもしれません。主に従うという決断をまず第一にすべきです。後ろに残してきたものをいつまでも気にしていたら、主に従うことができなくなります。
 私たちも主の弟子として招かれています。覚悟を決めて主に仕えるお互いでありたいと思います。


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