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ルカ 17章1〜4節     2012年11月13日

もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度「悔い改めます」と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい。(4)

 私たちがこの世を歩んでいる中で、私たちは様々な罪の誘惑に出会い、また誘惑を感じることがあります。そのこと自身は不思議なことではありません。また誘惑を感じること自身は罪ではありません。主イエスも地上を歩んで行かれる中で様々な誘惑にあって苦しまれました。ただ誘惑を用意したり、自ら誘惑の中に飛び込んでいくのはとても愚かなことです。特に、小さい者のひとりを誘惑することは厳に避けなければなりません。
 そして万が一、罪をおかすことがあったら、それに気づいたときにすぐに悔い改めることです。そして、また、誰かが罪を犯していたら、祈りと愛をもって、その人に語ることです。そして悔い改めたら、ゆるすことです。「一日に七度」というのは、単に七回までということではなく、何度でもということです。私たちもまた神から多くを赦されていますし、また神ご自身が悔い改めて帰って来る者を受け入れてくださるからです。

ルカ 17章5〜10節     2012年11月14日

同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、「わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません」と言いなさい。(10)

 弟子たちはイエスさまに、「私たちの信仰を増してください」と求めました。自分の信仰の小ささに気づき、また、主イエスの中にある信仰の豊かさ・力強さを自分たちもいただきたいと思ったのでしょう。けれども主イエスは、信仰は量や大きさではないことを語られます。どんなに小さかったとしても、そこに命を与える主に対する生きた信仰があったら、どんな祈りや求めもかなえられていくのです。
 そして、信仰というのは単に頭の中での観念的なものではなく、具体的に神に従い、仕えて行く日々の歩みが伴うべきものです。もちろん、そこで私たちがたとい主に従ってどれだけのことをしたとしても何も誇ることはできません。私たちが何をしたとしても、そのことをさせて下さったのは神の力・神の恵みですし、それは私たちが当然なすべきことにすぎないからです。謙虚になって、私たちを喜んでくださる主を共に喜び、仕えていきたいと思います。

ルカ 17章11〜19節     2012年11月15日

きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか。(17〜18)

 この当時、イスラエルではこの重い皮膚病の人たちは汚れた者とされ、町の中に住むことが許されず、家族からも引き離されて町の外に住んでいました。彼らは遠くから主イエスに向かって叫びます。「わたしたちをあわれんでください」。主イエスは、彼らを見て、祭司のところに行ってからだを見せるようにとおっしゃいました。この病は宗教的な汚れを意味していたので、この病の診断、また癒された認定は祭司によって行われていたからです。そして、彼らは行く途中できよめられたのでした。
 十人の癒された人の中でただ一人が、大声で神をほめたたえながら帰って来て、主イエスのところにひれ伏して感謝しました。その人はサマリヤ人でした。残りの九人は病が癒されたのがうれしくて、感謝することも、神さまを礼拝することも忘れて家に帰ってしまったのでしょう。私たちは感謝することを忘れてはなりません。感謝を忘れてしまうと、神さまの祝福の半分を失ってしまいかねないのです。

ルカ 17章20〜21節     2012年11月16日

神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。(21)

 パリサイ人が主イエスに尋ねます。「神の国はいつ来るのか」。この問いはみんなに関心のある問いでした。人々は、神が遣わされるメシヤ、救い主によって、この地上に、エルサレムを都とする神の国が設立されると信じ、期待していたのです。実際、イエスに従っている人々は、主イエスがローマを蹴散らかして、王として治められる国ができると信じていたのでした。
 けれども、主イエスは、神の国は目に見えるものではないとおっしゃいます。ここで、「国」と訳されている言葉は「王国」です。神の国とは、神が主権をもって治められる国です。
 主イエスは、「神の国は、実にあながたのただ中にある」とおっしゃいました。まさに、主イエスを信じる者たちのうちに神の国、神の支配はすでに実現しているのです。しかしここにはもう一つの意味があると言われています。あなたがたのただ中に、と言われたとき、主イエスを取り巻くように人々が集まっていました。「あなたがたのただ中」と言われたその中心に主イエスが立っておられました。主イエスのご自身に神の支配が、すでに完全な形で実現していたのです。

ルカ 17章22〜37節     2012年11月17日

そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう。ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。(26〜27)

 主イエスは再び、栄光のうちに帰って来られます。その日は突然やって来ます。それまで、主イエスが現れたという嘘の惑わす情報が流され、また偽キリストが出てくるでしょう。けれどもだまされてはなりません。
 主イエスが来られるのは、誰もそのことを予想していないような日です。ノアの洪水の日もそうでした。洪水が起こるその日まで人々は悔い改めることなく、自分の好きなことをしていました。その日は突然、やって来ます。けれども、だからといって、私たちはそれを恐れることも、特別なことをする必要もありません。私たちは、主イエスがいつおいでになっても良いように、神を信じ、待ち望みます。そして、主を待ち望みつつ、落ち着いた生活をするのです。それは必ずしも特別なものではありません。いつ主が来られてもいいように、主を信じて日々を重ねていくことが求められているのです。


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