chuo@8008amen.com


バックナンバー

旧約聖書
新約聖書
マタイによる福音書
マルコによる福音書
ルカによる福音書
(章) 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
  11 12 13 14 15 16 17 18
  19 20 21 22 23 24
ヨハネによる福音書
使徒行伝
ローマ人への手紙
コリント人への第一の手紙
コリント人への第二の手紙
ガリラヤ人への手紙
エペソ人への手紙
ピリピ人への手紙
コロサイ人への手紙
テサロニケ人への第一の手紙
テサロニケ人への第二の手紙
テモテへの第一の手紙
テモテへの第二の手紙
テトスへの手紙
ピレモンへの手紙
ヘブル人への手紙
ヤコブの手紙
ペテロの第一の手紙
ペテロの第二の手紙
ヨハネの第一の手紙
ヨハネの第二の手紙
ヨハネの第三の手紙
ユダの手紙
ヨハネの黙示録
ルカ 21章1〜3節     2012年12月3日

よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。(3)

 エルサレムの神殿で異邦人の庭から婦人の庭に入っていく東側の門を「美しの門」と言い、その門の内側にラッパ型の口をした十三の献金箱が置かれていたと言われています。主イエスはそこで人々が献金をする様子を見ておられました。
 金持たちはたくさんの献金をささげています。しかし、そこにいかにも貧しい身なりをしたやもめがやって来てレプタ二つを入れました。レプタは一番小さな硬貨で二枚でも五十円ほど、と言います。けれども、それは彼女が持っていた全財産でした。
 主イエスはそれを見ていて言われます。あの貧しいやもめは誰よりもたくさん入れた。金額から言ったら金持の献金にかなわない。でも神さまはこのレプタ二つを喜ばれた。彼女が一番精一杯の献金をしたからです。神さまは私たちの献身を見ておられます。私たちの神は、私たちがどのようなささげ方をするのかを関心をもってごらんになっており、私たちの心からのささげものを喜んでくださるお方なのです。

ルカ 21章5〜9節     2012年12月4日

あなたがたはこれらのものをながめているが、その石一つでもくずされずに、他の石の上に残ることもなくなる日が、来るであろう。(6)

 人々は見事な石や奉納物を見て感嘆していました。どこからこんな大きな石を切り出したんだろう。どのようにしてここまで持ってきて、石を積み上げたのだろう。立派な石、そしてすばらしい建築技術です。またその宮にやって来る人たちが奉納した数々のささげものもすばらしい。中には人々が知っている有名人たちの名前もあったかもしれません。
 けれども、主イエスは「何をながめているのか」と問われます。神に目を上げ、神を見つめ、神を礼拝する場で、彼らは神以外のものに目を奪われていたからです。そして主イエスは、この石が崩される時が来る、とおっしゃいます。目に見えるものはやがて過ぎ去っていくのです。そして主イエスは惑わされないように、と警告されます。私たちが本来目を注いでいるべきもの以外のものに心奪われていると、容易に惑わされてしまう、主はそのことを知っておられたからです。

ルカ 21章10〜19節     2012年12月5日

それは、あなたがたがあかしをする機会となるであろう。(13)

 この目に見えるものが崩される時、その前には様々な前兆があります。偽キリストの出現、戦争と騒乱、民族紛争や、国家間の紛争、いろいろな天変地異、そして迫害。私たちが主に従って行く中で、反対者たちが起こってきます。そのような中で困難や迫害が襲ってくるでしょう。そして、両親・兄弟・親族・友人にさえ裏切られ、すべての人に憎まれるというのです。
 けれども、そのような迫害がかえってあかしのチャンスになります。そんな状況下でいったい何を語ればいいのでしょう。けれども主イエスは、私が語るべき言葉を与えるからと約束してくださいました。また主は、神に従う者が神によって守られることも約束してくださいました。髪の毛ひとすじさえも落ちることはないのです。
 終わりの時、歴史の完成の時が近づく中で、私たちにとって大切な事は、神に信頼して、耐え忍ぶということです。誰かが私たちに危害を加えようとしたとしても、誰も私たちの魂を滅ぼすことはできません。

ルカ 21章20〜28節     2012年12月6日

そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。(27)

 「エルサレムが軍隊に包囲される」とはこの時から四十年後のローマ軍によるエルサレム陥落において成就します。そして、イスラエル人たちは全地に散らされていったのでした。
 そして動くはずがないと思われていた天が振り動かされます。これから何が起こってくるのだろうと、悩み・恐怖・不安で気絶しそうになる中で、主イエスは雲に乗って再臨されます。最初主イエスは貧しい大工の息子としてベツレヘムに生まれ、布にくるまれて飼い葉おけに寝かされました。けれども次に主イエスが来られる時には大いなる力と栄光をもって来られます。
 主イエスの再臨の時は、主イエスを拒み続けている者にとっては恐ろしい裁きの時です。けれども、主イエスを信じ、困難の中にあっても耐え忍んできた者たちにとっては、その日は決して恐ろしい時ではありません。かえって主イエスを迎える喜びの日です。まさにそれは救いの完成の時なのです。

ルカ 21章29〜33節     2012年12月7日

天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない。(33)

 私たちは様々な出来事の中で季節の移り変わりを知ることができます。それと同じように、主イエスが語られた一つ一つのことを確認していく中で、その「時」が近づいているのを知るのです。そして、私たちは、今自分たちを取り巻く世界に起こっている出来事を観察していく中で、神の国が近づいているのを知ります。神の国とは天国のことであり、主イエスの王としての支配のことです。それは歴史の完成の時であり、また歓喜の時です。
 目に見えるものはすべて過ぎ去っていきます。けれども「わたしの言葉は決して滅びることはない」と主イエスはおっしゃいます。目に見えるものに人生の土台を置いていると、それはやがて変わり、私たちは裏切られ、多くのものを失うことになるでしょう。けれども、主イエスの御言を土台として、それを頼みとして生きる人は決して裏切られることはありません。そして、主の御言にすがって生きた人はやがて喜びをもって主を迎えるのです。

ルカ 21章34〜38節     2012年12月8日

これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい。(36)

 心が鈍っていることがあります。神の御旨に従って生きるのではなく、自分の欲と罪の赴くままに生きていく時に、日々我を忘れるほど泥酔したり、この世の中のいろいろなことばかりに気を取られ、忙しくしていく中で、心が鈍くなって、神の御心が分からなくなってしまったり、神がこの世界にしようとしておられる救いのご計画を忘れてしまうのです。
 私たちは主がおいでになる日が近づいていることをおぼえ、その日に喜びのうちに主の御前に立つことができるように備えていたいと思います。
 そのために「絶えず目をさまして祈っていなさい」と主イエスはおっしゃいました。もちろん「絶えず目を覚まして」とは寝ないということではありません。心の目を覚まし、主に対する信頼と祈り心をもって過ごしなさいということなのです。


礼拝メッセージ
毎週日曜日の
礼拝での
メッセージから


生活の処方箋
日々を楽しく過ごす
ためのヒントが
ここに