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ルカ 18章1〜8節     2012年11月18日

まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。(7)

 私たちの祈りはとてもせっかちで、祈ったことがその通りにならないと、すぐにあきらめて祈ることをやめてしまいます。けれども主イエスは失望せずに祈り続けるようにと教えられたのでした。そして主イエスは不正な裁判官のたとえを語られます。「神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官」のところに「ひとりのやもめ」が助けを求めます。彼女はたびたび裁判官を訪れ、助けを求めます。裁判官は煩わしくなって、彼女の願いを聞き入れることにしたのでした。
 これは決して、神さまもなかなか私たちの祈りを聞いてくれないけれど、しつこく祈っていると我慢ができなくなって祈りに答えて下さる・・・ということではありません。本当に非情で滅茶苦茶な裁判官でも求めに答えてくれるとしたら、愛に富んだ、真実な主が、私たちの祈りに答えることなく、ほったらかしにされることなどないのです。私たちは主に信頼して祈り続ける者たちでありたいと思います。

ルカ 18章9〜14節     2012年11月19日

ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と。(13)

 自分を義人とし、他の人を見下げている人たちがいました。特にパリサイ人たちのような真面目な宗教家たちがそのような落とし穴に落ち込んでいました。主イエスはたとえをもって正しいあり方を指し示されます。
 二人の人が祈りに行きます。一人はパリサイ人であり、もう一人は取税人でした。パリサイ人は表向き神に「感謝します」と祈っています。けれども祈りの中身はほんとんどが自慢であり、人を見下げる思いでした。それに対して取税人は遠く離れて立ち、胸を打ちながら「神さま、罪人のわたしをおゆるしください」と悔い改めの祈りをささげます。主イエスは神に義とされたのは取税人の方だったとおっしゃいます。
 自分はこれだけがんばっている、と自分の業を誇る人がいても、その良い業がその人を救うことはありません。悔い改めて神さまの憐れみにすがる人だけが、神の赦しと救いにあずかることができるのです。

ルカ 18章15〜17節     2012年11月20日

よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない。(17)

 人々がイエスさまのところに幼な子を連れてきました。主イエスに手を置いて祝福していただきたいと思ったのです。けれども、それに気づいた弟子たちが、その人たちを注意します。この時代、子どもが小さい頃に病気になって大人になる前に亡くなることも多かったということもあったでしょう、子どもは数にいれてもらえませんでした。弟子たちとしては休む間もなく働き続けられる主イエスをこれ以上煩わせてほしくないという思いだったはずです。
 しかし、主イエスはかえって幼な子たちを呼び寄せられます。そして、幼な子が来るのを止めようとした弟子たちを叱責されたのでした。そして、主は「神の国はこのような者の国」とおっしゃいます。幼な子は何も疑うことなく、語られるとおりに神の国を求め、受け入れることを知っておられたからです。私たちは大人かもしれません。考え方で子どもなのは困りますが、信仰においては子どものような純真さを持ち続けたいと思います。

ルカ 18章18〜34節     2012年11月21日

これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われることができるのですか」と尋ねると、イエスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる」。(26〜27)

 「ある役人」がイエスさまのところにやってきます。この人は青年でありながら大金持でした。この人は小さい頃から律法を守り、忠実な生き方をしていました。けれども、彼の中に「永遠の命を持っている」という確信がなかったのです。彼は主イエスに「何をしたら・・?」と尋ねます。主は彼に「まだ一つ」とおっしゃって、財産を全部手放して、従ってくるようにと迫られたのでした。彼は主イエスの言葉を聞いて非常に悲しみます。
 主イエスは彼の様子を見ていて、富んでいる者が神の国に入ることは難しい、とおっしゃいました。この主イエスの言葉は弟子たちにとっては驚きでした。当時の人々はお金持は神に祝福されていると考えていたからです。お金持が難しかったら誰が神の国に入れるでしょうか。主イエスはおっしゃいます。だから人にはできないのだ。でも「神にはできる」。神は救われるはずのない私たちが救われるために実に大きなことをしてくださったのです。

ルカ 18章35〜43節     2012年11月22日

「わたしに何をしてほしいのか」とおたずねになると、「主よ、見えるようになることです」と答えた。そこでイエスは言われた、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。(41〜42)

 金持の青年が永遠の命を受け取ることができなかったエピソードを挟むように神の国に入ることができた人たちの話が置かれています。前に置かれているのは幼な子たちの話であり、後に置かれているのが盲人の物ごいの話です。その時代の人々の感覚からすると、神の祝福からは遠い存在としてとらえられていた人々が、主イエスにとらえられ、神を賛美しながら主に従って行くのです。
 この盲人の物ごいは、「ダビデの子イエスよ」と叫び続けます。「ダビデの子」とは旧約聖書に約束されたメシヤの称号でした。彼はイエスを救い主と告白し、主イエスに憐れみを求めたのです。彼の求めは切なるものでした。そして主イエスは立ち止まって彼を呼んでくださいました。「わたしに何をしてほしいのか」という問いに対して、彼は「見えるようになること」と大胆に信仰の求めをします。そして。あわれな物ごいであった彼が、神を賛美する人に変えられたのです。


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