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ルカ 11章1〜4節     2012年10月9日

また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。(1)

 弟子たちはイスラエル人です。生まれたときから神を礼拝する家庭の中で育ち、また会堂で聖書を学んできたはずです。たといガリラヤの漁師たちや取税人であったとしても、お祈りをしたことがないということはなかったでしょう。けれども、彼らが主イエスの祈る姿を見ていたときに、主イエスの中に自分たちの知らなかった祈りの姿を見、またぜひ、それを自分のものとしたいと思ったのでしょう。私たちも一生かかって、祈ることを学び続けていきたいと思います。
 主イエスは、弟子たちの求めに応じて「主の祈り」を教えられました。それは神を「父」と呼ぶ祈りでした。主イエスの祈りには自分を愛し、受け止めていてくださる父なる神への深い信頼があったのです。主イエスはまず、神の御名があがめられ、その御国が来るようにと祈った後に、とても具体的な日々の必要を求めるようにと教えられます。そして、またそれは「わたしたちの」祈りでした。私たちは場所は離れていても心を合わせて共に祈りたいと思います。

ルカ 11章5〜13節     2012年10月10日

このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか。(13)

 主イエスは引き続き、祈りについて教えられます。ここで主イエスはひとつのたとえ話をされます。一人の人のところにお客さんが来ます。ところが着くのが遅かったため、何も出すものがありません。そこで彼は真夜中だったのに、隣りに出向いていきます。隣にはパンがあるのを知っていたからです。ただ何しろ夜中です。隣の主人は最初、渋るのですが、執拗な求めに、起きてきて、必要なものを出してくれたのでした。
 必要があるのに、出すものがない。それはまさに私たちの現状でもあります。そして私たちは、父なる神は私たちのすべての必要を満たすことができることを知っています。大切なのは、信頼して求め続けることです。神さまは決して出し渋るような方ではありません。けれども主は私たちが信頼して祈り続けることを願っておられます。そして知ってください。私たちに一番必要で、主が私たちに与えたいと願っておられるのは「聖霊」ご自身なのです。

ルカ 11章14〜26節     2012年10月11日

しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。(20)

 主イエスは悪霊を追い出し、病を癒してくださいました。けれども、そのようなしるしを見ても、主イエスを信じることを拒む人たちがいました。彼らは主イエスの行われる奇跡を見て、イエスは悪霊のかしらの力を利用して悪霊たちを追い出している、と言いました。自分たちが信じないことを正当化するために、とんだ言いがかりをつけたものです。
 主イエスはまさに神の力によってそのことをしておられました。彼らはそのことを認め、まさに旧約聖書の時代から約束されていた神の国、神の支配がそこに実現していることを認めるべきでした。
 また悪霊が追い出されるということだけに目を奪われてはいけません。大事なことは悪霊が追い出されるということではなく、悪霊が追い出された後に、主がその心のうちに住み、主がその心を支配してくださるということなのです。

ルカ 11章27〜28節     2012年10月12日

しかしイエスは言われた、「いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである」。(28)

 主イエスのことがますます有名になり、またエルサレムに向かう主イエスに対する期待が高まっていく中で、主イエスを産んだマリヤは恵まれている、とたたえる女性の声が響きます。確かにマリヤは恵まれた女性でした。それは間違いがありません。けれども主イエスは、その声を聞きながら、「いや」と口を挟まれます。恵まれているのは、神の言葉を聞く人であり、聞いてそれを守る人だ・・・イエスはそのように語られたのです。
 目に見えるどんな祝福にまさって、主の言葉を聞くということはすばらしいことです。私たちが聖書を読むことによって、神の言葉を毎日聞くことができるということは本当に感謝なことです。もちろん、聞くだけで終わってはいけません。さらに恵まれているのは、聞いて行う人です。主に信頼して御言に生きる人なのです。
 マリヤも恵まれていました。しかしマリヤが恵まれていたのは、単にイエスさまの母親になったからではなく、彼女が神の言葉を聞いて、それを受け入れ、それに生きたからなのです。

ルカ 11章29〜32節     2012年10月13日

しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。・・・しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。(31、32)

 人々は主イエスのもとに集まって来ていました。人々の中には、主イエスに、噂にも聞いているような奇跡を見せてほしいと期待している人たちがいたことでしょう。けれども主イエスは、しるしを求めても与えられないとおっしゃいました。つまり何か不思議な事をしてくれたら信じるというのは違うぞとおっしゃったのです。
 そして、主イエスは旧約聖書の実例を二つあげられます。ひとつはソロモンを訪ねてきた南の女王であり、もう一つは、ヨナの宣教によって悔い改めたニネベの人たちです。ソロモンは旧約聖書の箴言の主著者であり、ヨナは預言者でした。このふたりで主イエスは旧約聖書を代表させようとされたのでしょう。そして、それぞれとの関わりで、神の前に出た人々はいずれも異邦人でした。異邦人たちがソロモンやヨナを通して示された神を信じる・・・しかしユダヤ人たちは信じようとしませんでした。「ヨナのしるし」とは実は主イエスの復活をさしています。大切な事は見ることではなく、そのまま信じることなのです。しるしはすでに与えられているからです。

ルカ 11章33〜36節     2012年10月14日

あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。(34〜35)

 あかりがともされていたら、周りの人はそれに気づくはずです。私たちの内なる光はどうでしょうか。私たちは本当に神さまの恵みに輝いているでしょうか。私たちは主イエスに出会うまでは、罪の中、闇の中を歩んでいました。実際私たちはまさに「闇」そのものでした。でも光である主イエスが来て下さって、私たちを照らして下さったとき、私たちは闇から光に入れられ、闇から光に変えられたのです。
 ここで主イエスは「目はあかり」とおっしゃいました。心の輝きを表すものはまさに目だとおしゃるのです。目が明るいか暗いか、澄んでいるか曇っているか、それを主は問われるのです。確かに私たちが神さまの前にいろいろやましいものを抱えていたら、きっと澄んだ目で神さまと向き合うことはできないでしょう。
 主を信じ、信頼して、神に近づき、澄んだ目で主を見上げ、また人々に主の恵みを伝えることのできるお互いでありたいと思います。

ルカ 11章37〜41節     2012年10月15日

ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる。(41)

 主は、罪人や取税人とも一緒に食事をされましたが、同時に、イエスと敵対することの多かったパリサイ人からの招待もお受けになって一緒に食事を楽しまれました。今日の聖書の箇所でも、ひとりのパリサイ人が主イエスと食事がしたいと申し出ます。
 ところが、主イエスが食前に洗うことをされなかった・・・その当時、宗教的に熱心な人たちは衛生上のことを考えてというよりも、きよめの儀式として手をよく洗ってからでないと食事をしなかったのです。外で、汚れたものに触れてしまっていたら、その手で食事をすることによって手に着いた汚れが体の中に入ってしまう、というわけです。
 けげんな顔をするパリサイ人に、主は、外側をきよめることばかりに気を配るのではなく、まず内側をきれいにするようにと教えられたのでした。外側の汚れを負わないようにと気をつけ、目に見える部分を清く保つことに執心している間に、実は心の中が貪欲と邪悪に満ちているではないか・・・。厳しい言葉です。しかし、まさに、その汚れに満ちた私たちの内側をきよめるために主は来て下さったのです。

ルカ 11章42〜44節     2012年10月16日

しかし、あなた方パリサイ人は、わざわいである。はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を宮に納めておりながら、義と神に対する愛とをなおざりにしている。(42)

 主イエスはパリサイ人の罪をさらに指摘されます。彼らは律法の規定に基づいて、什一献金を行っていました。律法に違反することのないように、様々な収入・収穫について厳密に十分の一を計算し、宮に納めていました。ただ、それだけのことをしながら、義と、神に対する愛がなおざりにされている、と主は指摘されます。
 また、彼らが人目ばかりを気にし、人からの賞賛を求め、それを喜んでいる姿勢をも批判されます。そのような中で彼らが人からどう見られるかという外側から見える部分ばかりに気を取られて、内側に汚れたものが満ちていてもそれに気づかないでいるということが多かったからです。
 什一献金は私たちに主が求めておられることであり、また神の祝福をもたらします。人の目を気にすることもまた大切でしょう。けれども、いつの間にか、神の前に生きるということではなく、人に対して自分の優秀さをアピールする手段になっている・・・主はそんなパリサイ人の生き方に「わざわいだ」とおっしゃったのです。

ルカ 11章45〜54節     2012年10月17日

あなたがた律法学者も、わざわいである。負い切れない重荷を人に負わせながら、自分ではその荷に指一本でも触れようとしない。(46)

 主イエスはまた律法学者たちにおっしゃいます。あなたがたは人々に自分でも負いきれない重荷を負わせている。律法学者たちは聖書を学びながら、神の御言を規定集として解釈し、自分のところに学びに来る人々に、それらを厳格に守り行うようにと教えました。ただ彼らは、まるで、人々がそれらの律法を自分の決心・覚悟・努力で実行していくことを求めたのです。彼らにとっては、聖書の言葉は、自分たちを愛しておられる神の恵みの言葉ではなくなっていました。
 そして、人々が、要求されていることに応えていけなくても、それに対して何の助けを与えることなく、できない人を裁き、切り捨てていったのです。
 そして、自分たちは真面目で神に従っている、と豪語する彼らは、自分たちの先祖が神から遣わされた預言者たちを殺したように、神から遣わされた救い主イエスを殺害することになります。人間の真面目さや努力は、罪からの救いをもたらすことができないのです。


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