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ルカ 7章1〜10節     2012年9月10日

ただ、お言葉を下さい。そして、わたしの僕をなおしてください。(7)

 主イエスがカペナウムに帰られたとき、一人の百卒長がユダヤ人の長老たちを主イエスのところに遣わします。この百卒長とはローマの百人隊長のことです。彼は自分の頼みとしていた僕が病気で死にかかっていた中で、主イエスに助けを求めたのでした。この百卒長は異邦人でしたがユダヤ人たちの人望も厚かったようです。 主イエスは百卒長の家に向かわれます。しかしそれと知った百卒長は友人を送って、主イエスが自分の家に来るのを止めます。この百卒長はユダヤ人たちが異邦人の家に行くということが、時に汚れたこととされ大きな問題となることを知っていたのでしょう。
 百卒長は、「ただ、お言葉をください」と求めました。百卒長は自分の言葉でさえ、部下たちには大きな意味と力をもっていることを知っていました。だとしたら、主イエスの言葉は、必ず病の中にある自分の僕をいやす力をもっている、すべてのものは主イエスの言葉に従うのだと、信じたのでした。そしてまさにその通りになったのです。 

ルカ 7章11〜17節     2012年9月11日

主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ、「泣かないでいなさい」と言われた。(13)

 主イエスがナインの村に来られたとき、ちょうど町の門のところを外に出て行こうとする葬列に出会われました。一人の女性が泣いているその悲しみの姿は、明らかに彼女の大事な人が亡くなったことを示していました。彼女はすでに夫を亡くし、一人息子と暮らしていました。そころがその一人息子が死んでしまったのです。
 主イエスはこの女性に深い同情を寄せられました。そして彼女に近づき、「泣かないでいなさい」とおっしゃいました。主イエスは六21で「あなたがたいま泣いている人たちはさいわいだ」とおっしゃいました。けれども、主イエスは悲しみのある現実を肯定し、あきらめて受け入れるようにとおしゃったのではありません。悲しみが悲しみで終わらないということをおしゃったのです。「泣かないでいなさい」と言われても、どうしてこの状況で泣かないでいることができましょう。けれども、主イエスは彼女の涙を確かにぬぐい、喜びに変えてくださったのでした。「泣かないでいなさい」と本当に責任もって語ることができるのはこの主イエスだけです。

ルカ 7章18〜23節     2012年9月12日

行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、重い皮膚病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。(22)

 バプテスマのヨハネはヘロデによって捕らえられて獄中にいました(ルカ三18〜20)。ヨハネは主イエスにヨルダン川でバプテスマを授け、主イエスが特別な方、神から遣わされた救い主であることを確信し、自分の弟子たちにもそのことを語っていました。そして実際、十二弟子に選ばれたアンデレやヨハネは元々はバプテスマのヨハネの弟子だったとも言われます。
 主イエスが実際に公生涯に入って人々を教え、その力ある業を行っていかれた時、宗教家たちは主イエスを非難し、様々な悪口を言いました。イエスを取り巻いて何が起こっているか、自分の弟子たちから聞いたバプテスマのヨハネは、主イエスについて確認したいという思いが出て来たのでしょう。自分の弟子二人を遣わして、直接主イエスに尋ねます。主イエスは、今起こっていることを見れば十分だと語られます。主イエスを通して行われていた数々の癒し、そして今まで神さまの福音を聞いたこともなかったような人たちが福音を聞いているということ、それはまさに救い主のしるしだったからです。

ルカ 7章24〜28節     2012年9月13日

あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。(28)。

 主イエスはバプテスマのヨハネのことについて語り出されます。バプテスマのヨハネが荒野で人々に悔い改めを迫り、救い主をお迎えする準備をするようにと語った時に、人々は町々村々から集まって来て、自分の罪を告白してバプテスマを受けたのでした。どうして人々はヨハネの元に集まったのでしょうか。自然が美しかったからでもありませんし、また偉大なスーパースターがそこにいたというわけでもありません。このヨハネは救い主が来られる前に現れて、その道備えをしました。主イエスはこのヨハネについて、「女の産んだ者の中で、ヨハネよりも大きな者はいない」とおっしゃいました。ヨハネは確かに大人物でした。
 けれども、そのヨハネも神の国では小さい、というのです。それは救い主なる主イエスを信じる者に神の国が開かれるという新しい時代が来たからです。どれだけ功績を積んだかとか、真面目だったかと言うことではありません。主イエスを信じる者に与えられる救いの大きな豊かさを感謝したいと思います。

ルカ 7章29〜35節     2012年9月14日

また人の子がきて食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。(42)

 主イエスは喜びの訪れを携えてこられました。けれども、多くの人たちは主イエスのもたらしてくださった喜びを受け入れて共に喜ぼうとはしませんでした。主イエスが厳しいメッセージを語り、涙をもって信じない者に対する裁きを語られても、人々は心を痛めて共に泣こうとしませんでした。
 バプテスマのヨハネが悔い改めを勧め、禁欲的な生活をしていると、悪霊に取り憑かれていると言い、また主イエスが罪人と言われる人たちと共に食事をしていると、罪人の仲間・食をむさぼる者と言う。つまり、もともと信じる気持ちが全くないから、言いがかりのように難癖をつけ、また信じない理由をこじつけていくのです。信じないと心に決めてしまったら、神さまの祝福の大きな部分を失ってしまいます。
 主イエスはどんなに悪口を言われても、取税人、罪人の仲間と呼ばれることをよしとしてくださいました。主は罪深い私たちの友となってくださったのです。

ルカ 7章36〜50節     2012年9月15日

それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない。(47)

 主イエスは取税人とも食事を共にしてくださいましたが、パリサイ人の招きも喜んで受けられました。ただ、このパリサイ人の招待には様々な思惑もあったのかもしれません。聖書はこのパリサイ人の名前をシモンと記録しています。彼は主イエスをお招きしながら、当時の習慣であった足を洗う水さえ、イエスさまにお出ししていませんでしたし、主イエスのなさることを観察しながら心の中でいろいろな思いをめぐらしていたからです。
 その時、彼の家にとんでもないゲストがやって来ます。歓迎されないゲストです。彼女はその町で「罪の女」と呼ばれていました。その女が主イエスに近づくと、涙でイエスさまの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、その足に接吻して、香油を塗ったのです。
 主イエスは、彼女の行為を、多くを赦されたことから来る大きな愛に基づくものとして受け入れて下さいました。多く愛されていることを知っている人はそのような生き方をするのです。


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