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ルカ 6章1〜5節     2012年8月30日

すると、あるパリサイ人たちが言った、「あなたがたはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのか」。(2)

 パリサイ人たちとの論争が続きます。主イエスの弟子たちが麦畑に入っていって手で麦の穂を摘み、手でもみながら食べていました。そのこと自身は律法の中でも認められていました。つまり鎌で刈ったりしない限り、人の畑に入ってちょっとお腹に入れること自身はお互いに生かし合うためにも許されていたことでした。
 パリサイ人たちが問題にしたのは、主イエスの弟子たちが仕事をしてはいけない安息日にそのことをしていたということでした。つまり、手で摘んで、揉んだと言うことが、収穫をし、脱穀したことになると指摘したのです。
 けれどもそれに対して、ダビデの実例を上げながら、主イエスは規定どおりに何かをするとか、しないとかということ自体が重要なのではないと主張されたのでした。いつの間にかパリサイ人たちは安息日に自分がしていること、しないでいることを誇るようになり、安息日の精神を見失っていました。まさに「安息日の主」である方がそこに立っておられるのに、それを見ようとしなかったのです。

ルカ 6章6〜11節     2012年8月31日

そして彼ら一同を見まわして、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、その手は元どおりになった。(10)

 パリサイ人たちは、もはや主イエスに聞こうとする冷静さを失っています。イエスのあらを探し、訴える口実を捜をのでした。また安息日が来て、主イエスは会堂で教えておられました。そしてそこに右手のなえた人がいました。パリサイ人たちは、主イエスがそのような人を見たら、癒さずにはおられないだろう。もし安息日にそのような「治療行為?」を行ったら律法に反する者として訴えてやると心に決めていました。
 少なくとも彼らは主イエスがその男を癒すことができること、また主イエスが慈愛に満ちたお方であることを知っていたことになります。
 そして主は彼らが想像したようにその男に憐れみを注ぎ、彼を癒してくださいました。「手を伸ばしなさい」と語られるときに、その御言を聞いた彼の生涯に、その通りの事が起こったのでした。安息日はまさに善を行い、また命を救い、人を生かす日なのです。

ルカ 6章12〜19節     2012年9月1日

このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった。(12〜13)

 イエスに従い、ついてきていた人たちの中から、主イエスは十二人を選び出されました。そして、彼らに「使徒」という名を与えられたのでした。「使徒」とは遣わされた者という意味の言葉です・彼らは主にあって遣わされて福音を語っていくことになります。この十二人のメンバーは実にバラエティーに富んでいます。ペテロ、アンデレ、ヤコブとヨハネの四人は漁師たちです。マタイは取税人、熱心党のシモンは武闘派右翼の活動家。イスカリオテのユダ以外はみなガリラヤ地方の出身。どこかで先生について学問をしたというような人物は誰もなく、後に彼らは「無学な、ただの人たち」と呼ばれます。
 けれども主イエスは彼らを深い祈りの中で選び出されました。そしてご自身の側に置いて教育し、また福音を託していこうとしておられたのです。

ルカ 6章20〜21節     2012年9月2日

そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである」。(20)

 イエスのところには大群衆が押し寄せてきていました。その中には主イエスの教えを聞きたい、また病を癒してもらいたい、悪霊を追いだしてもらいたい、そういった様々な思いがあったことでしょう。その時、主イエスは目を上げて弟子たちを見ながらおっしゃいます。この聖書の箇所はマタイによる福音書五〜七章と重なっていますが、同じ時のことを指しているのか、別の時の説教を取り上げているのかは定かではありません。
 まず主イエスはさいわいだ、祝福されていると語り出されます。ただマタイによる福音書が特に心のあり方について語っているのに対して、ルカによる福音書では霊的・精神的な貧しさをも含みながらも、具体的な貧しさ・飢え・涙に言及しているように思います。弟子として生きるということは、貧しさ・飢え・涙の中を通るかもしれない。けれどもあなたがたは、神に見捨てられているわけではない、神はあなたを豊かにし、笑わせてくださると約束されるのです。

ルカ 6章22〜23節     2012年9月3日

その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。(23)

 今日の聖書の箇所は、弟子たちが、信仰のゆえに、その宣教の業のゆえに、主イエスの弟子として忠実に生きているゆえに排斥され、ののしられ、汚名を着せられることがあるかもしれない、と語ります。実際、この後、弟子たちはそのような中を通ることになりました。ルカによる福音書が書かれた時代もまさにそのような時代でした。ルカが伝えた主イエスの言葉はどんなに迫害の中にある教会を慰めたことでしょうか。
 主イエスは、もし迫害の中に置かれたら、喜び踊れ!とさえ言います。それは迫害の中にあるということが、自分たちの先祖の預言者たちと同じように正しい歩みをしているというしるしだからであり、また天において受ける報いが大きいからです。
 私たちの生涯は、地上の歩みだけではありません。かえってそれは永遠という時間の座標軸の中ではほんの一瞬にしか過ぎないのです。私たちに約束されている永遠、そして天の祝福を見据えて、力強い歩みをさせていただきたいと思います。

ルカ 6章24〜26節     2012年9月4日

しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。(24)

 主イエスの時代、ユダヤ人たちは、富だとか豊かさを神の祝福のしるしと考えました。今でもそうです。私たちは祈って、成功・豊かさ・数が多いこと・健康・笑い・人々の賞賛などが与えられるときに、神が自分をかえりみてくださっている、祝福してくださっていると考えるのではないでしょうか。確かに、神さまがよくしてくださったと感謝し、主に栄光を帰するのは大切なことです。けれども、主イエスは、そのような目に見える豊かさや成功は、必ずしも神の祝福のしるしではないとおっしゃいました。かえって、わざわいだとさえ言われたのです。
 確かに、自分の豊かさや成功や人々の賞賛にあぐらをかき、それを誇り、それに寄り頼むようになる危険性は極めて高いのです。私たちは神がよくしてくださったときに、謙虚になって神の憐れみに感謝し、ますますへりくだって神に仕え、また人に仕える者たちであいたいと思います。

ルカ 6章27〜36節     2012年9月5日

しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。(27〜28)

 敵・憎む者・はずかしめる者・のろう者・・・残念なことですが、私たちの生きる世界の現実の中では、私たちに悪意をもって近づく人々がいることも確かです。私たちはそのような中で傷つき、また憤りを覚えます。けれども主イエスはいと高き者の子である私たちは、そういった人々をも愛し、親切にし、祝福し、祈れと教えられました。
 確かに自分に親切にしてくれ、自分に好意をもって近づく人々を愛し、よくしてあげるのは当然のことでしょう。しかし、神は恩を知らぬ者や悪人、罪人に対しても情け深く、慈悲深い方なのです。だから、私たちもまたこのお方にならって生きるのです。
 けれども、それは単に、神の子として、神のように生きるようにがんばるということではありません。本当は私たち自身が愛される資格のないものだったのです。そんな者が赦され、愛され、神の子とされている・・・だから私たちも人々を愛し、仕えるのです。

ルカ 6章37〜38節     2012年9月6日

与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。(38)

 相手にしたように自分もされます。ですから誰かをさばかないでゆるし受け入れれば、自分もゆるし受け入れられます。誰かに与えたら、自分にもそれは返ってきます。
 私たちはその相手がまず自分にそのようにしてくれたら自分も相手を受けいれて同じようにしてあげようと思います。けれども、神が求めておられるのは、神を知っている私たちがまずイニシアチブをとることです。相手がどうかによって自分の対応を決め、それを変えようとするのではなく、相手がどうであってもまず自分が最初の一歩を踏み出すことです。それは神が私たちのために最初の一歩を踏み出してくださったからです。
 主イエスは教えられます。私たちが人に与えるときに、人々は「おし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして」あなたに返してくれる。恵みに生きる豊かさを思います。

ルカ 6章39〜42節     2012年9月7日

偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう。(42)

 人を裁かない・・・というのは、裁いていると同じように自分に返ってくるから、というだけではありません。人を裁いている自分自身が、実はゆるされるべき者であり、案外さばいている本人が自分自身が見えていないということがあるからです。
 主イエスはここで、兄弟の目にあるちりはよく見える、とおっしゃいます。人の過ちは小さくてもよく分かるものです。けれども自分の目にある梁(家の屋根を支える丸太)には気づかないのです。大切な事は、人のこと以上にまず、自分のことに気づいて、自分の目から梁を取り除けることです。
 自分がぼんやりとしか見えてないのに、人のことを批判し、人を正し、導こうとしても、それは無理というものです。まず神さまの恵みによって自分自身の姿を見せていただき、自分の中にある正すべきところを主の前に認めて、正していただきたいと思います。

ルカ 6章43〜45節     2012年9月8日

善人は良い心の倉から良い物を取り出し。悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。心からあふれ出ることを、口が語るものである。(45)

 私たちの中から何が出てくるかで、私たちの中に何があるかが分かります。中にあるものが出てくるのです。木の善し悪しは、その実で分かります。私たちは良い実を結ぶお互いでありたいと思います。そのためには、まず私たち自身がよい木となることです。それは私たちの努力やふんばりによってというよりも、良い木にしてくださる神の恵みにすがる時に起こることです。
 私たちは「心にもないことを言ってしまった」と言い訳をしますが、主イエスは心からあふれてくるから口が語るのだとおっしゃいました。大事なことは。私たちの心の整理をし、心を神さまにきよくしていただくことです。もし、私たちが神によってきよくしていただいたら、私たちは良い実を結び、また良い言葉を語る者とされていくのです。 

ルカ 6章46〜49節     2012年9月9日

それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。(48)

 主イエスはこの説教を閉じるにあたって、主イエスの言葉を聞くだけでなく、聞いて行うことの大切さを強調されました。「主よ、主よ」と主を呼び、主を信じて生きるというなら、主イエスが語られる言葉に従い、それに生きることが大切です。
 主イエスは、御言を聞いて行う者のことを、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人にたとえられました。確かに土台があってもなくても、普段の時には大きな問題はないでしょう。けれども洪水が出て、激流がその家に押し寄せると、土台がしっかりしているかどうかがものを言います。
 厳しいことですが、私たちの生涯にも、洪水が押し寄せるような危機の時があります。けれども、主イエスに聞き、その御言に生きる人は何も恐れる必要はありません。据えられている、その土台は決して揺らぐことがないからです。


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