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ルカ 20章1〜8節     2012年11月27日

何の権威によってこれらの事をするのですか。そうする権威をあなたに与えたのはだれですか。(2)

 エルサレムに入られた主イエスは宮で人々に福音を語っておられました。けれども、そこにエルサレムの宗教指導者たちがやって来て、イエスに問い正します。おそらく、彼らはイエスが神殿の庭から商売人たちを追い出したり、大勢の人たちを集めて宮で教えておられるのが、目障りであり、また自分たちの権利に踏み込んでこられているように感じたのかもしれません。何の権威によってこのことをしているのか、誰の許可で・・・と問い詰めるのです。
 主イエスは彼らに逆に質問されます。バプテスマのヨハネは天からか、人からか。彼らは人前でその問いに答えることができません。自分の立場を守り、自分を正統化するために、彼らは「どこからか、知りません」と答えます。「分かりません」ということです。彼らは答えたくなかったのです。私たちが答えなければならない問いがあります。イエスはまさに神の権威で、ご自身の権威で語っておられました。その権威を受け入れるかどうかという問いです。

ルカ 20章9〜18節     2012年11月28日

そこで、イエスは彼らを見つめて言われた、「それでは、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった』と書いてあるのは、どういうことか。(17)

 主イエスは先の宗教指導者たちがまだ近くにいる中で、集まっている群衆たちに一つのたとえ話をされます。とんでもない悪い農夫たちの話です。主人がぶどう園のために働き人を雇って旅に出る。収穫の季節になったので、分け前を受け取ろうと使者を遣わしたが、何度僕を送っても、袋だたきにしたり、辱めたり、傷を負わせたりして追い払ってしまった。けれども、主人はなおもその僕たちを信頼して、それでは、と自分の息子を切り札として遣わした。けれども、僕たちは、その四回目の使者が主人の愛子であることを分かっていながら、彼を殺してしまったのでした。まさに同じことが起ころうとしていました。しかし、詩篇一一八22にあるように、人々から捨てられた主イエスこそが救い主なのです。
 私たちは何とひどいことを・・・と思います。確かにこれは当時の宗教家たちに対する警告であり、彼らの目を覚まさせるためのたとえだったと思います。しかし、私たちは人のことを非難できる者ではありません。私たちもまた神に背いた罪人だからです。

ルカ 20章19〜26節     2012年11月29日

カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。(25)

 宗教家たちはイエスを言葉のわなにかけようと画策します。そして、彼らは主イエスに対して義人を装った回し者を送り込みます。そして、主イエスを持ち上げてから、問いかけたのでした。「カイザルに貢ぎを納めてもよいだろうか」という問いです。これは巧妙に仕組まれた罠でした。イエスが、納めるべきではない、とおっしゃたら、イエスをローマに対する反逆者として訴えることができます。しかし、納めるべきだ、と言われたら、ローマに対して反発している民衆は皆主イエスを離れていくことでしょう。
 しかし、主はそのたくらみを見破って、その硬貨に刻まれている肖像は誰のものか、と問われました。当時、人々が日常生活で使っていたのはローマの貨幣であり、ローマ皇帝の肖像が刻まれていました。ユダヤ人たちはその硬貨は汚れていると言って、献金用にはイスラエルの硬貨を使っていたのでした。主イエスは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい、とおっしゃいました。私たちは自分に与えられている神に対する責任を果たします。けれども同時に社会的責任も忘れてはなりません。 

ルカ 20章27〜40節     2012年11月30日

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである。(38)

 「サドカイ人」とは、祭司長たちやレビ人たちなど、神殿で奉仕する人たちが属しているグループでした。その当時の特権階級であり、現状に満足している人たちでした。彼らはとても現世的であり、復活や天使などは信じませんでした。彼らは主イエスが宮に乗り込んできて、自分たちの生活が乱されたり、下手にローマ軍の介入を招いて自分たちの特権が取り上げられたり、神殿が破壊されて失業することを恐れていました。
 そんなサドカイ人たちも主イエスのところに来て質問します。復活を信じることがどんなに不合理なことかを突きつけるときによく持ち出した問いだっただろうと言われます。しかし、主イエスは天国では、めとったり嫁いだりということはない、と語られました。そして復活はない、と主張する彼らに、アブラハムもイサクもヤコブも、確かにこの地上の生涯は終わったけれども、彼らは今も生きている、神は生きている者の神なのだ、と大胆に語られたのでした。

ルカ 20章41〜44節     2012年12月1日

どうして人々はキリストをダビデの子だと言うのか。(41)

 神はダビデに約束されて、あなたの子のうちから、子らの子のうちから、イスラエルを治める王が起こされると語られました。ですからイスラエルの人々はダビデの子孫としてやがてイスラエルを救う王なるメシヤが立てられると信じ、期待し、待ち望んでいました。ですから「ダビデの子」というのはメシヤに与えられた称号でもあったのです。
 けれども、主イエスは神が遣わされる救い主は単にダビデの子孫として生まれるだけではない、とおっしゃいます。イエスさまが取り上げられたのは詩篇一一〇篇1節です。ここでダビデが「主」と呼んでいるのは神ご自身、「わが主」と呼んでいるのがダビデの子孫として生まれる救い主です。ここでダビデが自分の子孫の一人として生まれるメシヤを「わが主」と呼んだということに、単に「ダビデの子」ということだけではない、「主」としてのメシヤの姿があるのです。私たちはこのお方を神として、主としてお迎えするのです。

ルカ 20章45〜47節     2012年12月2日

律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くのを好み、広場での敬礼や会堂の上席や宴会の上座をよろこび、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。(46〜47)

 民衆が聞いているところで、主イエスは弟子たちに「律法学者に気をつけるように」とおっしゃいました。それは単に、律法学者からの攻撃に注意するようにということではありません。主イエスは、弟子たちの中にも容易に律法学者的な考え方・生き方が忍び込んでくるということを知っておられたのです。
 律法学者たちは人からどう見られるかということばかりを気にしている。そして人からよく見られること、尊敬されること、賞賛されることをいつも考えている。
 言い換えると、彼らはいつも見栄を張って生きていて、見えるところばかりを気にしている。でも彼らの中には真実がない。その祈りも神にささげられるというよりも、人に聞かせるものであり、地位や名誉を喜びながら、でも隠れたところでは弱い人たちを踏みつけにしている。それが律法学者たちの姿でした。弟子たちだけではありません。私たちもまた人の目ばかり気にし、隠れたところで真実に生きるこということができているか、いつも点検していただきたいと思います。 


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