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マタイ 8章1〜4節     2011年12月16日

イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、重い皮膚病は直ちにきよめられた。(3)

 山の上で大変恵まれた時を過ごした群衆がイエスさまと一緒に山から下りてきます。けれどもそこで彼らが向き合うことになったのは非常に厳しい現実でした。重い皮膚病にかかった人がイエスに近づいてきました。この「重い皮膚病」は宗教的な汚れを意味するとされ、また社会生活からも隔離されて、家族と離れて町の外に住まなければならなかったと言われます。
 彼は主イエスのところに来て、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」と言いました。ン人々は、この重い皮膚病の人を恐れたでしょう。しかし、主イエスには何の躊躇もありませんでした。主は、彼の方に手を伸ばして、彼にさわり、「そうしてあげよう(わたしの思いだ)。きよくなれ」と言って、彼をきよめてくださったのでした。
 主イエスは私たちにも手を伸ばして私たちにふれ、私たちをきよくしてくださいます。

マタイ 8章5〜13節     2011年12月17日

ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。(8)

 「百卒長」とはローマの軍隊の百人隊長です。けれども彼が主イエスに近づいて、中風(卒中)で苦しむ自分の僕の癒しを懇願したのでした。彼は、部下に対していばり散らし、人を人とも思わないような上司ではなく、部下を愛し、そのために骨身を惜しまない人であったことが想像できます。
 主イエスは彼の家に行こうとおっしゃいました。けれどもこの百卒長はそれを固辞します。ユダヤ人の主イエスが、異邦人の家に行くということが、どれだけ物議をかもし出すかを彼も知っていたのでしょう。彼は、「ただ、お言葉をください」と願うのでした。
 主イエスは、彼の言葉を聞いて大変感心し、喜ばれました。この百卒長が、主イエスの権威を認め、同時に、主イエスが語られる言葉のうちにある権威と力を認め、主イエスの言葉が必ず実現することを信じていたからです。そしてこの百卒長が信じたとおりに、彼の僕はいやされたのでした。主イエスのお言葉には今も権威があります。それはそのことを語られた主ご自身の権威なのです。

マタイ 8章14〜17節     2011年12月18日

そこで、その手にさわられると、熱が引いた。そして女は起きあがってイエスをもてなした。(15)

 ペテロはガリラヤ湖の漁師でしたが、主イエスの弟子になりました。十二弟子の中でも年長者だったかもしれないと言われています。十二弟子を代表するようにして発言する場面が聖書の中にいくつも残されているからです。彼は弟のアンデレと共に網を捨てて主イエスに従いました。しかし、ペテロはこの時点ですでに結婚していたことが、ここから分かります。ペテロの妻や、また両親にとって、ペテロの「献身」はある意味で、死活問題であり、ペテロがイエスについていくことを理解し、受け入れることはやさしくなかったはずです。
 そんな中で、ペテロの奥さんの母親が熱病になりました。主イエスは、そのことを知られた時に、近づいて、その手にさわり、彼女をいやしてくださいました。熱が引いて元気になった彼女は、起き上がって主イエスをもてなしたのでした。病気が治ったと言うだけでなく、彼女は感謝して主に仕え、また義理の息子の献身を心からサポートしたに違いありません。主イエスがしてくださった御業、その救いに感謝して、私たちには何ができるでしょうか。

マタイ 8章18〜22節     2011年12月19日

イエスは彼に言われた、「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」。(22)

 主イエスがすばらしい教えを語り、また力ある業を行って、病気の人々をいやし、また悪霊を追い出して行かれた時に、自分もイエスの弟子になりたい、イエスにお伴したいという人々も多くいたことでしょう。19節に出てくる「律法学者」もそのひとりです。けれども主イエスはここで、彼にその覚悟を問われます。主イエスは有名になって、人々の注目と賞賛を浴びて、尊敬と豊かさを得る、というような生涯は送られませんでした。実際、神の国の福音を伝えて行く中で、「枕するところがない」というようなところを通られました。親の葬りにも立ち会えないということさえあるかもしれません。弟子として生きるということは厳しさがあるのです。
 けれども、知ってください。十字架・復活、ペンテコステを経て生まれた教会では、すべてのキリスト者が「弟子」と呼ばれています。私たちもまた主イエスの弟子として召されています。弟子としての覚悟をすると共に、弟子とされて、主と共に生きることのできる恵みと祝福を覚えたいと思います。

マタイ 8章23〜27節     2011年12月20日

するとイエスは彼らに言われた、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」。それから起きあがって、風と海とをおしかりになると、大なぎになった。(26)

 弟子たちはイエスに従って舟に乗りました。ところが突然、思いがけない嵐が襲ってきたのでした。暴風のために大波が起こり、舟を飲み込もうとしています。弟子たちの中には少なくとも四人の漁師たちがいました。彼らはガリラヤ湖を知り尽くし、何度も暴風に遭っていたことでしょう。けれども、その彼らも含めて、恐れ、怖くなって、「死んでしまう!」と叫んだほどでした。
 彼らはそこで、主イエスに近寄ります。そして、「主よ、お助けください」とすがりつくのでした。少なくとも、彼らは主イエスに求めれば、この様な状況も何とかしていただける・・・ということをとっさに思ったのでしょう。そして嵐の中でも眠っておられた主イエスは、起き上がって風と海をおしかりになりました。すると嵐は止んで、大なぎになったのでした。
 主イエスは、私たちの身に起こるどんな嵐をも静めることができるお方です。主イエスの内にあった平安が、お一人ひとりの中にもありますように。

マタイ 8章28〜34節     2011年12月21日

そこで、イエスが「行け」と言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。(32)

 嵐の後にたどり着いたのは、「ガダラ人の地」でした。そこで主イエスは悪霊につかれた二人の人に出会います。彼らは「手に負えない乱暴者」で、「墓場」をすみかとしていたようです。誰も彼らを救うことはできませんでした。けれども主は、彼らの内に住み着いていた悪霊を追い出してくださいました。悪霊たちは豚の群れの中に入り込みましたが、豚はがけからガリラヤ湖に飛び込んで死んでしまったのでした。
 町中の人たちがイエスに会いに出て来ます。けれどもそれはイエスに感謝し、礼拝するためではなく、イエスにこの地方から去っていただくためでした。彼らにとっては悪霊を追い出していただき、正気になった二人の男よりも豚の方がずっと価値があったのでしょう。
 主は、私たちに限りない価値を認め、私たちを救ってくださいます。悪霊は時に、私たちの内に足場を作り、私たちを自分の意のままにしようとするかもしれません。けれども主は私たちに自由を与えてくださいます。


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