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マタイ 13章1〜9節     2012年1月18日

耳のある者は聞くがよい。(9)

 マタイ一三章はこの章全体が「天国」に関する教えになっています。「天国」という言葉は、マタイだけが使っており、他の福音書では「御国」とか「神の国」と言われています。マタイは、「神」という言葉を軽々しく口にすることに違和感を覚えるユダヤ人たちを読み手としてこの福音書を書いているために、「神」と言う代わりに「天」と言ったのだろうと言われます。
 主イエスは、たとえを多く語られました。これは聞き手であった当時の人々がいつもよく目にする光景でした。ですから、きちんと聞けば、主イエスの意図しようとしたことは子どもでも理解できたことでしょう。主イエスは決して難しい言葉で語ることはなさいませんでした。ただ、それは主イエスが深い話をなさらなかったと言うことではありません。イエスは深い話を優しい言葉で語られたのです。
 大事なことは、きちんと主イエスに「聞く」ことです。それは単に音として鼓膜に伝わっているということではなく、それを理解し、従うことということです。あなたにはそのような「耳」がありますか。

マタイ 13章10〜17節     2012年1月19日

あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。(17)

 主イエスが語っておられたのは、「天国の奥義」でした。天国とは、単に死んでから移されるパラダイスではなく、神の支配のことでもあります。神の支配される世界とはまさにこのようなものだということを主イエスは語られたのです。
 「持っている人」とは心を開いて主イエスを受け入れ、その言葉に生きる人のことです。そのような人には、ますます豊かな主の恵みの世界が開かれていきます。けれども、主イエスを拒み続ける人は、いただいている恵みまでも失い、ますます貧しくなってしまうことでしょう。
 主イエスによって新しい時代が始まりました。旧約聖書の人物たちは、そのことをおぼろげながらに見て、期待し、待ち望んでいました。しかし、私たちは主イエスの語られたこと、なさったことを、聖書の中からはっきりと知ることができます。恵みの時代の中に生かされていることを心から感謝したいと思います。

マタイ 13章18〜23節     2012年1月20日

また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである。(23)

 主イエスは種まきのたとえを弟子たちに説明してくださいました。種は御国の言です。御国の言には命があって、三十倍、六十倍、百倍もの多くの実を結びます。ただ、それが実を結ぶかどうかは、どのような地に落ちるかで決まってきます。それは私たちがどのように御言を聞くかということです。私たちの聞き方、聞く者の心の姿勢が問われています。
 まるで聞こうとしていないか、聞いても根を下ろしていかないか、聞くけれども他のものにも多く気を配っていくのか、それとも御言を聞いてしっかりと受け止め、悟り、そのように生きていくのか・・・私たちはどの地に近いのでしょうか。
 私たちは心の中の石やいばらを取りのけて、良い地になり、多くの実を結ぶ者でありたいと思います。けれども私たちの心からそのようなものを取り除き、良く耕して実を結ぶ良い地にしてくださるのは主の恵みなのです。心を主に開いて、主に整えていただきましょう。 

マタイ 13章24〜30節     2012年1月21日

収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう。(30)

 ある人が良く耕して手入れをした自分の畑に良い種をまきました。豊かな収穫を望みながら、心を込めてそのことをしました。ところが、その人を良く思わない敵が来て、毒麦をまいていったのでした。これは麦科の雑草ですが、菌が寄生してアルカロイドという有毒物質が生み出され、中毒症状を引き起こすものとして知られています。
 良い種と共に毒麦も芽を出してきたのを見た主人は、その毒麦をひとまずそのままにしておきます。ただやがて収穫の時には毒麦を集めて焼き払い、麦は倉に収めるようにと言うのでした。
 収穫の時というのは、ここでは最終的な世の終わりの審判の時を示しています。それまでは良いものも悪いものもまるで同じように成長し、同じように存在を許されている・・・けれども、やがてそれらがはっきり区別される時が来るのです。

マタイ 13章31〜32節     2012年1月22日

天国は、一粒のからし種のようなものである。(31)

 天国は「一粒のからし種」のようなものとイエスさまはおっしゃいました。からし種は小さな小さな種です。けれども、それが畑にまかれると、芽が出て、伸びて、大きくなって、どんな野菜よりも大きくなって、空の鳥がその枝に宿るほどになる。それはまさに、その種の中に命があるからです。そして、その種に組み込まれたDNAは小さく始まったその種が大きく大きく育つことを何も起こらない前から規定しています。
 天国・・・それは神の支配です。ここで天国とは「死んで、最後の審判の結果、入れる世界のこと」というような狭い意味ではありません。それは神の御支配であり、ある意味では、「教会」と言ってもよいかもしれません。
 主イエスの福音、そして、そこに立つ教会は、十二人の弟子たち、百二十人の集まって祈っていた人たちからスタートしました。小さな小さなグループで、何の経済力も政治力もありませんでした。けれどもそれがやがて、世界をひっくり返すような大きな力をもって成長していくのです。主イエスのおしゃったとおりになりました。今もそうです。私たちは小さく始まってもそれで終わることはないのです。

マタイ 13章33節     2012年1月23日

天国は、パン種のようなものである。(33)

 パン種とはイースト菌(酵母)のことです。パン種は少量であっても、大きな粉のかたまりの全体に働いて、全体を膨らませます。三斗とは、ここでは約二三リットルです。とてもたくさんの粉です。しかし、少量のイースト菌はその全体に影響を与えるのです。
 なぜそのようなことが起こるのでしょうか。それはそれが単細胞の生物体だからです。イースト菌はパン生地に含まれる糖分を取り込んで、炭酸ガスとアルコール(ここでは香り成分)を出します。ですから、ふっくらと香ばしいパンができるのです。
 その意味では、天国も生き物です。神の支配されるところ、そこには命があって、私たち全体に影響力をもっている。香りを与え、大きくふくらませる。
 主を信じる一人の人の存在は、たといどんなに小さく無力に見えたとしても、また小さくて見えないほどであったとしても、その周囲に、またその存在するコミュニティーに、社会全体に大きな影響力を与えていきます。なぜなら、そこには命があるからです。

マタイ 13章34〜43節     2012年1月24日

そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くがよい。(43)

 主イエスは「世の初めから隠されていること」を語っておられました。それは、救い主なる主イエスが来られて救いのご計画が最終段階に来ている中で、どうしてもすべての人が聞いておかなければならない大切なメッセージでした。そのメッセージを主は「たとえ」を用いて語られました。誰にでも分かる形で教えられたのです。ただ同時に、主イエスに対する信仰なしにはそれは理解不能でした。
 主イエスは弟子たちのために、毒麦のたとえを解説されます。今の私たちの歩みの中では良い者も悪い者も存在を許されています。けれどもやがて、それらが分離され、取り分けられる時が来ます。悪しき者は地獄に落とされ、義人は父なる神の御国に入れていただき、そこで太陽のように輝きます。「義人」というのは真面目だった人、品行方正だった人ということではありません。救い主なる主にすがり、罪許されて、恵みの中に生きる人です。この地上でどんなに厳しく、暗い中を通されたとしても、やがて主の栄光に輝く時が来るのです。

マタイ 13章44節     2012年1月25日

天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。(44)

 ある時、人がある畑でたまたまとんでもない宝を見付けます。この人は、何の気なしにそこを通り過ぎたのかもしれませんし、またその畑を借りて耕作していたのかもしれません。いずれにしても、この人は偶然、この宝を見出したのでしょう。彼はその宝を再び隠して、自分の持ち物を全部売り払います。そして、その持ち主から畑を買い取り、その宝を自分のものにしたのでした。
 たとえは大事な真理を他の事柄で説明しようとするものですから、そのたとえで表そうとした中心的な真理をしっかりとらえることが大切です。このたとえの中心的なメッセージは、「喜びのあまり・・・持ち物をみな売り払い」というところです。つまり、天国にはそれだけの価値があるということなのです。だからそれを見出した人は。他のものをすべて捨てたとしても惜しいとは思いません。いや,かえって「喜んで」すべてを売り払い、手放して、その畑を買うのです。全部をかけないとそれは手に入らないのです。 

マタイ 13章45〜46節     2012年1月26日

また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。(45〜46)

 この商人は、良い真珠を捜して世界中を旅していました。そして、ついに彼が求めていた真珠に巡り会ったのでした。それは彼が期待していた以上のものでした。彼はその真珠の価値が分からない人には無謀としか思えないことをします。彼は帰って、持ち物を全部売り払い、その真珠を自分のものとしたのでした。
 基本的には前のたとえと同じことを語っているものと思われます。ここでも「行って持ち物をみな売り払い」という言葉が、前のたとえと共通しています。この真珠の商人はその全財産をかけても惜しくない、はるかにおつりが来るほどの大きな価値をその一粒の真珠に見出したのです。彼は確かに商人でしたから、それを売ってまたもうけようとしていたかもしれません。けれども真珠商人として彼は、儲け以上にその真珠に惚れ込んだのでしょう。あなたにとっては天国はどれだけの価値があるものなのでしょうか。 

マタイ 13章47〜50節     2012年1月27日

世の終りにも、そのとおりになるであろう。すなわち、御使たちがきて、義人のうちから悪人をえり分け、そして炉の火に投げこむであろう。(49〜50)

 イエスの弟子たちには漁師たちもいましたし、またガリラヤ湖に近いところでは、この漁のたとえが人々の心に印象的に残ったことでしょう。天国、神の御支配は地引き網のようなものです。その網の中には、いろいろな魚が入ります。良いもの、悪いもの、またゴミ・・・。引き上げた網の中を見て、その中のものを仕分けしなければなりません。
 ここでも主は「世の終わり」という言葉を使われます。この今の世界は終わる時が来ます。それはまた今の世界が完成し、新しい時代・新しい世界が始まる時でもあります。ただ、この世の終わりは祝福の時であると共に、厳粛な審判の時でもあります。今は良いものも悪いものも同じように見えるかもしれません。同じ網の中にいるかもしれません。けれども、悪い者たちが選り分けられ、裁きに渡される時が来るのです。私たちは、その意味でも、今の時を厳粛な思いをもって過ごしたいと思います。

マタイ 13章53〜58節     2012年1月29日

そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは力あるわざを、あまりなさらなかった。(58) 

 主イエスは郷里のナザレに行って、そこで人々を教えられました。ナザレの人々もイエスの教えに驚嘆しました。その教えをすばらしいと思いました。その教えに驚き、主イエスに驚きました。イエスの言葉に知恵を見出し、それに感嘆しました。また主イエスのなさる力ある業を見聞きするにつけ、イエスが特別な存在であることを認めざるを得ませんでした。
 けれども、彼らはそれだけでとどまってしまい、主イエスを信じようとはしませんでした。かえって、怪訝そうな顔をして「どこで習ってきたのだろう」と首をかしげるのでした。聖書は、「人々はイエスにつまづいた」と言います。幼い頃からイエスを見てきた人々は、主イエスを特別なお方として受け入れ、信じることができなかったのです。
 主イエスの特別さを認識し、その教えに感銘するだけでは不十分です。主の力ある業を自らの生涯の中に期待するのは、イエスを主として受け入れ、信じることなしにありえないことだからです。


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