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マタイ 7章1〜5節     2011年12月8日

人をさばくな。自分がさばかれないためである。(1)

 「人をさばくな」という御言は人に注意をしてはいけない、ということではありません。時には言いにくいことも伝える勇気を持つことは、とても大切です。ただ同時に、善意と正義感にあふれて人を非難する言葉の中には、いつの間にか自分はいつも正しいとする自己義認や自己正当化などの自己中心が混ざってしまうことがあります。自分は正しいという正義感と自分は言いにくいことをあえて言っているという自己犠牲の精神にあふれて、実は相手を切り捨て、相手を見下げるような生き方です。そういう人は、人のことを注意する前に、自分の目の中に梁が入っているのに気がつかない。梁とは家の屋根を支える大事な太い横柱です。案外、私たちは自分のことは見えないのです。
 人を裁くまえに、まず自分の姿を見直すことです。そのためには神の前に静まって自分の姿を映し出していただくこと、また自分の親しい友人に頼んで、自分を客観的に評価してもらうのもまたよいでしょう。まず主に自らを正していただきましょう。

マタイ 7章6節     2011年12月9日

聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。(6)

 「豚に真珠」ということわざです。聖なるもの、尊い高価なものを、その価値が分からない人に手渡しても、かえって逆効果かもしれません。「神の恵みの尊さが分からない」人はかえって主の恵みを踏みにじり、また神の恵みを手渡そうとする人々を逆恨みすることでしょう。
 もちろん、これが人々に御言を伝えない言い訳になってはいけないでしょう。私たちは相手が聞いても聞かなくても御言を伝えて行きますし、また相手が愛を返してくれなかったとしても愛をもって仕えていきます。けれども、大切な事は、相手の理解力に合わせて語り、主を手渡していくことです。
 そして、たといそれが私たちの耳に厳しいことだったとしても、主が与えてくださる大切で豊かな恵みを喜んで受け入れるお互いでありたいと思います。

マタイ 7章7〜11節     2011年12月10日

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。(7)

 ここで「求めよ」「捜せ」「門をたたけ」と言われているのは、「求め続けよ」「捜し続けよ」「門をたたき続けよ」ということです。私たちは祈り始めても、止めてしまいます。それは祈りに答えてくださる主に信頼していないからです。私たちが祈る相手、私たちの祈りを聞いてくださるお方は、私たちの天の父です。愛に満ちた真実な天の父なる神が、求めてくる者によくしてくださらいはずはありません。だから私たちは信頼して求め続けるのです。
 もちろん、お祈りが長ければよいということではありません。しかし、真剣で、真実な祈りを主は喜んでくださいます。主は「すべて」とおっしゃいます。ですからあきらめたり、投げ出したり、信じることを止めてしまったりしないで、求め続ける者に必ず答えてくださる主に求め続けましょう。主は求める者に、必ず良いものを下さるからです。

マタイ 7章12節     2011年12月11日

だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。(12)

 黄金律といわれる言葉です。「律法と預言者」とは、旧約聖書のことです。旧約聖書で教えられていることをわかりやすく言うとこういうことだと主イエスは語られたのです。
 論語の中にも「己の欲せざる所人に施すことなかれ」とありますが、ここではより積極的に、何をするかということが語られています。
 私たちは人に何をしてもらいたいでしょうか。愛してほしい、信頼してほしい、認めてほしい、話を聞いて受け止めてほしい、ほめてほしい、自分のことを分かってほしい・・・私たちは皆、そのように願っていることでしょう。だとしたら、私たちもまた、人に対して同じようにようにすることです。またここでは、望むことをその通りに、という中で、そのようにしてくれたら、そうしてあげるということではなく、まず私たちの側がイニシアチブをとり、最初の一歩を踏み出すことを求められているのです。

マタイ 7章13〜14節     2011年12月12日

狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。(13〜14)

 今日の箇所からこの章の最後までは、主イエスの山の上の説教の最後の結論部であり、説教の応答を求める招きの部分になっていきます。対になったものが次々に提示され、あなたはどちらを選ぶかという選択が迫られているのです。
 ここでは狭い門と広い門、狭い道と広い道が対照的に描かれます。狭い門は道が細く、それを見出す者が少いが、命に至る。広い門は、そこから入って行く者が多いが滅びに至る。おそらく、広い道の方が楽で、仲間も多いことでしょう。狭い門から入ると確かに命に至るのですが、そこから入って行く者は少数者で、そこから先も様々な困難があるかもしれません。けれども、主イエスは私たちに、狭い門から入るようにと勧めておられます。第三の道はありません。主イエスの招きに従って、狭い門から入る者たちでありたいと思います。主は必ず、私たちに命を下さるからです。

マタイ 7章15〜20節     2011年12月13日

すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。(17)

 狭い門と広い門でどちらを選ぶかがその永遠を決めてしまいます。けれども実際には広い門を選ぶ人が多い。それは、時に広い門は人気があり、楽そうで、滅びにつながるように見えないからです。私たちはだまされてはいけません。偽物・みせかけだけの道があります。
 主イエスはまた、「にせ預言者」を警戒するようにと教えられました。神の言を語り、民を導くとしながら、実際には、民を迷わせ、滅びに導くような宗教家たちのことです。それではどのように、本物と偽物を見分けるのか。主イエスは、その実によって見分けることができるとおっしゃいました。良い実を結んでいるかどうか。それは単に口でどのようなことを語っているかとか、どれだけ宗教的な雰囲気をかもし出しているかではなく、その人がどのような生き方をしているか、ということを見極めるということです。
 そして、本物を見分ける目を持つと共に、自分が本物になっているかどうか、自分の信仰がどのような実を結んでいるかを点検させていただきたいと思います。

マタイ 7章21〜23節     2011年12月14日

わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。(21)

ユダヤ人たちはみな、お祈りすることをしていたでしょう。皆が「主よ、主よ」と祈っていたでしょうし、多くの宗教家たちはなおさら宗教的な実践を励んでいました。けれども、主イエスは、だから天国に入るという訳ではないとおっしゃいました。
 それだけではありません。主イエスの名によって預言をし、悪霊を追い出し、また人々が驚くような数々の力ある業を行っていたとしても、天国に入れないことがある。私たちは不思議な奇跡が目の前で行われたり、心を打つようなすばらしいお話がされると、驚嘆し、この人は神に用いられているすばらしい器だと思います。けれども、それは、その人が神に遣わされた器であり、また、自分たちを命に導いてくれるということを保証するものではありません。大切なことは、その人が神の御旨を行っているかどうかということなのです。さて、それではあなたは、天の父の御旨を行っているでしょうか。

マタイ 7章24〜29節     2011年12月15日

雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。(25)

 岩の上に建てた家も、砂の上に建てた家も、外見上は同じように立派に見えたことでしょう。そして、両方の家に同じように、雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いて打ちつけました。しかし、その結果は、全く違っていました。岩を土台としていた家は全く倒れませんでしたが、砂を土台としていた家は、ひどい倒れ方をしてしまったのです。
 土台は普段はあまり意識しませんし、外から見える部分ではなく、隠れた部分です。けれども、そこが大きな差をもたらしていく。主イエスは岩の上に家を建てた人を「賢い」と言い、また砂の上に立てた人を「愚か」と言います。確かにその通りでしょう。しかし、この賢さは、どれだけ勉強をして、良い成績をおさめられるかではなく、主イエスの言葉を聞いて聞きっぱなしではなく、それを行って、生きているかどうかで決まってくるのです。


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