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マタイ 21章1〜11節     2012年3月5日

向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいる・・・それを解いてわたしのところに引いてきなさい。もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。(2〜3)

 主イエスは弟子たちを二人送り、村からろばの子を連れてこさせます。それはまだ誰も乗ったことのないろばの子でした。それは何とも頼りなく、また格好悪いように思います。けれども、主イエスは「主がお入り用なのです」と言うようにと命じられたのでした。
 主は私たちをも用いてくださいます。主がお入り用なのです、と呼びかけられる時に、喜んで主に従って行く者でありたいと思います。
 主イエスはそのろばに乗ってエルサレムに入城されました。それは主イエスが政治的・軍事的なリーダーとしてエルサレムに来たのではないことを印象づけたはずです。そしてそれはゼカリヤ書に書かれていたことの成就でした。まさに、主イエスは柔和なお方として、またしもべなるメシヤとして、エルサレムに来て下さったのです。
 人々はホサナと叫んで主イエスを迎えます。「ああ、救って下さい」という意味です。けれども民衆は、数日後にはイエスを「十字架につけよ」と叫ぶのです。

マタイ 21章12〜17節     2012年3月6日

「わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである」と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。(13)

 主イエスは宮に入っていかれました。すると宮の庭で両替商やはとや動物を売る人たちが商売をしていました。彼らは礼拝に集まる人々の便宜を図るためにそこでお店を開いていました。日常生活で用いるローマの硬貨はそのままでは献金に使えませんでした。汚れていると考えられたからです。献金用に用いることのできるイスラエルの硬貨に両替しなければなりませんでした。また遠くからささげものの動物をもって来ることはできないので、人々はそこで動物を買って献げました。ただ問題が二つありました。元々は純粋な動機で始めたことであったとしても、「強盗」と言われたように、彼らがそれで暴利をむさぼっていたということ、また異邦人のために開かれた祈りの場であった「宮の庭」を大変騒がしい場にしてしまっていたことです。主イエスは大変怒らました。「わたしの家は、祈りの家」、このイザヤ五六7の預言は、まさに異邦人が集まって祈るという文脈の中で語られた預言です。「祈りの家」が「祈りの家」としての本質を失わないように心したいと思います。

マタイ 21章18〜22節     2012年3月7日

祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう。(22)

 いちじくの木は、イスラエルを象徴するものでした。ですから実のないいちじくとは、外側は栄えているように見えても、神をお喜ばせする実を結んでいないイスラエルの姿を表し、またその木が枯れてしまったとは、滅びが突然に襲ってくるという警告でもありました。
 弟子たちは、いちじくが枯れてしまったことを驚きます。主イエスは、もし信じて疑わないなら、同じようなことが起こる。山が海に入るということもできるとおっしゃいます。祈ることができるということは本当にすばらしいことです。祈りのとき、信じて求めるものは、みな与えられるからです。
 もちろん、自分の思いや欲望にまかせて自分勝手な願いをしても聞いていただける、ということではありません。ただ、そういう場合には、神はそのことを私たちに悟らせ、神の御心に沿った求めをすることができるように私たちを正して下さることでしょう。事柄によっては、その実現を忍耐をもって待たなければならないこともあります。けれども主はどこまでも真実なお方です。

マタイ 21章23〜27節     2012年3月8日

「何の権威によって、これらの事をするのですか・・・」。(23)

 民の長老たちや祭司長たちが来て主イエスにかみつきます。「何の権威によって」こんなことをするのですか。おそらく、これは主イエスがなさった宮きよめのことを指しているのでしょう。彼らは宮の管理をし、その秩序を守っていました。また彼らはその立場から、商売人たちから多少のリベートは得ていたかもしれません。そして、彼らはローマの支配下にあっても、とにかく自分たちの宗教活動が許容されている限りはそれでよしとしていましたから、エルサレムに争乱が起きてローマ軍が介入し、そして彼らの活動が制限され、自分たちの生活が脅かされるということを一番恐れていました。その意味でも、商売人たちの台をひっくり返すというような主イエスの行動は、彼らにはとても危険なものとして映ったはずです。
 そこで彼らはとても直接的な問いを投げかけます。「何の権威で」という問いです。あなたにはそんな権威も権利もないはずだと言いたかったのです。しかし、まさに、主イエスはすべての権威をもっておられるお方でした。

マタイ 21章28〜32節     2012年3月9日

このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか。(31)

 最初「はい」と言ったのに、父の望みどおりにしなかった兄は宗教家たちを、「いいえ」と言っていたのだけれど、後から心を変えて出かけ、父の望みをかなえた弟は、当時の取税人や遊女たちを指していました。宗教家たちは、バプテスマのヨハネが世に出て、荒野で悔い改めを宣べ伝えた時、彼が神から遣わされた人かもしれないとうすうす気づきながらも、それを否定し、信じようとはしませんでした。
 しかし、取税人や遊女たちは、確かに罪深い生活をしていたかもしれませんが、バプテスマのヨハネが出た時、彼を神から来た人として認め、彼の語るメッセージを受け入れて、悔い改めてその生き方を変えていきました。そして主イエスは、まさに神が願っておられるのはそのことであり、それが父なる神があなたがたに望んでおられることではないかと指摘されたのです。
 さて、父なる神があなたに望んでおられることは何でしょうか。あなたはこの神の望みどおりにしていますか。

マタイ 21章33〜46節     2012年3月10日

イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』。(42)

 主イエスはさらに宗教家たちにもう一つのたとえ話をなさいます。これはぶどう園の悪い労働者のたとえです。ぶどう園の主人が全部を整えて、労働者たちにそれを託して旅に出た。収穫の季節になって使いを遣わしてもなしのつぶてで、かえってその使者たちを袋だたきにしたり、殺したりしたのでした。最後に主人は自分の息子を遣わします。しかし農夫たちはその息子を外に引きずり出して殺してしまったのでした。
 とんでもないことです。誰でもそれは分かります。あり得ないこと、あってはならないことです。けれども、そのあってはなからないことが起ころうとしていました。そしてその宗教家たちは、主イエスが何を語ろうとしておられるかを悟りながらも、それでも悔い改めようとせず、主イエスを殺そうとしていました。けれども、まさに、聖書にあるように、宗教家たちが見捨てた主イエスが救い主としてあがめられることになるのです。


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