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マタイ 22章1〜14節     2012年3月11日

友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか。(12)

 天国は婚宴だ、と主は語られます。それはまさに大きな喜びの時です。ところがこの婚宴に最初に招かれていた人たちは、その王子のための婚宴を無視します。彼らの欠席の理由はとても信じられない失礼なものでした。またある人は王の遣わした使者を殺す事さえします。この婚宴への出席を拒んだ人たちはユダヤ人たちであり、また宗教家たちです。王は彼らを滅ぼし、代わりに出会った人は誰でも連れて来るようにと命じます。
 今日、すべての人が天国の婚宴に招かれています。私たちも招かれました。そして私たちはさらに多くの人たちを、出会った人は誰でも、主のもとにお誘いしたいと思います。しかし、婚宴が始まった時に、王が婚宴用に用意していた礼服を身につけていない人がいました。そして、この人は、婚宴から閉め出されてしまったのです。
 神はすべての人を招いて下さっています。けれども、天国に入るためには神が用意された礼服を着なければなりません。それこそが主イエスが用意してくださった救いなのです。 

マタイ 22章15〜22節     2012年3月12日

そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。彼らは「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。(20〜21)

 主イエスのところに今度はパリサイ人たちとヘロデ党の者たちがやってきます。政治的には全く逆の考えをもった人たちでしたが、彼らはイエスをわなにかけるためには心を一つにします。彼らはイエスのもとに来て、歯の浮くような仰々しい挨拶をするのですが、彼らの悪い意図は明白でした。彼らがイエスに回答を迫ったのは、ローマに税金を納めていいかどうかという質問でした。納めてはいけないとおっしゃったらイエスのことをローマに反逆する者だと訴えることができますし、納めよとおっしゃったら、民衆のイエスに対する期待は一気に冷え込んでいくことでしょう。けれども、主イエスはそのデナリ硬貨を見て、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」とおっしゃいました。彼らの予想をはるかに越えた知恵に満ちた答えでした。私たちもこの地上にあって、一市民として果たすべき責任があります。けれども同時に、それ以上に、神に対する責任を負っています。私たちには神の銘・神のかたちが刻まれているのです。

マタイ 22章23〜33節     2012年3月13日

「・・・『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。(32)

 サドカイ人たちが主イエスのところに来ました。サドカイ人というのは、神殿礼拝をサポートするレビ人たちや、祭司たちが多く関わっていたグループで、彼らは天使だとか復活だとかを否定していました。私たちは宗教活動をになっていた人々が復活や霊的存在を信じないというのは不思議な感じがします。けれども彼らは国家に保護された宗教的な特権階級であり、現世主義的な人々だったのです。新約聖書に良く登場するパリサイ人たちはこの対極にありました。
 ここでサドカイ人たちが持ち出した問題は、復活を肯定する人たちを困らせるためによく使われた例題だと言われています。けれども、主イエスは彼らを一蹴されます。復活の時にはめとったり嫁いだりということはないのだというのです。そして神がご自身を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と宣言された箇所を引用されます。神「だった」と過去形で語ってはいないというなかで、信仰者たちの地上の生涯は終わっていても、彼らは決して過去の人々ではなく、今も生きているのだとおっしゃったのです。

マタイ 22章34〜40節     2012年3月14日

イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。(37〜38)

 パリサイ人たちは、サドカイ人の持ち出した難問を主イエスが見事に解き崩されたことを聞いて集まって来ます。自分たちも悩んでいた難問だったということもあり、主イエスに一目置こうとする人々もいたかもしれません。しかし、その中の一人が主イエスを試そうとして問います。「律法の中で一番大切な戒めは?」。主イエスは答えられます。第一は神への愛であり、第二は隣り人への愛だ。まさに旧約聖書全体がこれらの二つに集約できると主イエスは語られました。
 第一に上げられた申命記六5はユダヤ人だったら子どもでも知っている御言でした。私たちにとって一番大切なのは神を愛することです。心から、真実をもって、また最善の力を尽くして、全力で主を愛することなのです。
 第二に上げられたレビ一九18は、隣り人を愛することです。遠くにいる名も知れない誰かという以上に、自分のすぐそばにいるその人を自分と同じように愛するということが求められています。

マタイ 22章41〜46節     2012年3月15日

ダビデ自身がキリストを主と呼んでいる・・・(45)

 確かに旧約聖書に約束されていた救い主、油注がれた特別なお方(メシヤ、ギリシャ語では「キリスト」)は「ダビデの子」と呼ばれていました。神は、ダビデに対してそのことを約束されたのでした。キリストはダビデの子として生まれることになっており、「ダビデの子」という称号は特別なものでした。
 けれども同時に主イエスは、ダビデのうたった詩篇一一〇篇を引用して語られます。「主はわが主に仰せになった」。ここで、「主」と呼ばれているのは神ご自身のこと、そして「わが主」と呼ばれているのはダビデの子として生まれる救い主のことです。
 つまり、ダビデ自身が、自分の子孫として生まれる救い主に対して、「主」という言葉を用いているのです。そのようにして主イエスは、ダビデの子として生まれる救い主は、単なる人間的な意味での「ダビデの子」ではなく、ダビデからも主としてあがめられる存在なのだと教えられました。まさに、私たちは、ダビデの子として生まれた主イエスを礼拝し、あがめるのです。


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