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マタイ 18章1〜4節     2012年2月19日

よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。(3)

 弟子たちは、主イエスに尋ねます。「天国ではだれがいちばん偉いのですか」。弟子たちは、主イエスが王になって権力を握られた暁には自分がナンバー2になりたいという野望を持っていたのでしょう。けれども主イエスの答えは弟子たちの期待を大きく裏切るものでした。まず、そもそも、幼子のようにならなければ天国に入ることができない。その当時、子どもはとても軽く見られていました。そうであるのに主イエスは幼な子のようにならないと・・・とおっしゃったのです。では幼な子のようになるとはどういうことでしょうか。ここでは、幼な子は自分を低くしている。そして、そのことが天国では欠かせない、自分を低くする者が天国では一番偉い、というのです。
 幼な子は無理をして、がんばって自分を低くしているのではありません。もともと低く見られていたのです。実際、幼な子は自分で自分を守ることさえできません。けれども天国では幼な子のように、自分の小ささを知り、ありのままで神の恵みを求めつつ、謙虚に生きる・・・そういう人が一番偉いのです。だから天国で偉い人は、自分が偉いとは言わないし、思わないでしょうね。 

マタイ 18章5〜11節     2012年2月20日

あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。(10)

 主イエスは自分のところに幼な子を呼び寄せられました。そして、弟子たちに、幼な子を受け入れることの大切さを語られます。幼な子を受け入れる人は主イエスを受ける人です。また神は幼な子をとても大切に思っておられて、幼な子がつまづかされたり、幼な子が軽んじられる時に、とても悲しまれ、怒られるのです。神は、幼な子のために御使いを遣わしておられるほどです。
 神はそのような一人の幼な子の中に、神への信頼・信仰を見ておられ、それをとても喜んでおられます。ですから幼な子をつまづかせる者はわざわいだとおっしゃいます。もちろん、罪を犯させる手を切り、足を切り、目を抜きだして・・・というのは文字通りそのとおりにするようにということではありません。手を切ったから、罪が赦されるわけではありませんし、「悪いことをしたのは、私ではなくこの手です」という理屈は通りません。それほどに厳しいことだということです。私たちは幼な子のために祈り、愛する者でありたいと思います。神が彼らを愛しておられるからです。

マタイ 18章12〜14節     2012年2月21日

そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。(14)

 小さい者を軽んじ、つまずかせることへの戒めが語られています。数にも入れてもらえないようなそんなひとりのことも主は覚えていてくださいます。百匹の羊を飼っている羊飼いにとっては数はあまり問題ではなかったでしょう。しかし、この羊飼いはこの一匹の小さい羊がいなくなったことに気づき、その迷い出ている羊を捜すのです。そして見つかったら、その一匹の羊が見つかったということのゆえに、心から喜びます。
 私たちは小さなひとりを軽んじないように気をつけたいと思います。私たちの天の父はひとりの小さい者も滅びることを望んではおられないからです。ただ同時に、私たちは、主イエスが、弱く小さいひとりを大切になさるという中で、あの人をこの人を大事にしていこうと心に決めると共に、自分自身が神から離れて、自分勝手な道に向かっていった迷える小羊であったということを忘れないでいたいと思います。私も、主イエスによって捜していただき、また見いだしていただいた小さな者のひとりです。神は私が滅びることを望まず、私を見いだして心から喜んでくださったお方なのです。

マタイ 18章15〜18節     2012年2月22日

もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。(15)

 「教会戒規」という言葉があります。主イエスを信じ、キリスト者となった人が罪を犯して神から離れた時にどうするかという道筋のことです。今日の聖書の箇所はまさにそのような教会戒規の土台になるテキストの一つです。ここで問題にされているのは、「あなたの兄弟」であり、キリスト者の罪です。最初は二人きりのところで警告します。もし聞いてくれなかったら、もう一人二人と一緒に忠告します。それでも言うことを聞いてもらえない場合には教会がその人と相対します。
 具体的には、教会の伝統の中では、訓戒・陪餐停止・除名というようなことが行われてきました。日本ホーリネス教団でもお互いに対する規定と共に、牧師に対する戒規として訓戒・停職・解任・除名などの規定があります。しかし、これらはいわゆる処分の規定ではありません。悔い改めを促すことによってゆるしを告げ、主にある兄弟姉妹としての回復につながるための道筋を示すものなのです。

マタイ 18章19〜20節     2012年2月23日

もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。(19)

 私たちはこの地上にあって決して大きな者ではありませんし、大きな権力や影響力をもつ者でもないでしょう。しかし、こんな小さな私たちの二人が、この地上で心を合わせて祈るなら、天におられる主イエスの父なる神がその祈りをかなえて下さるというのです。ここに来て、私たちは自分たちが大きな祝福と責任を与えられていることに気づきます。私たちの祈りは決して独り言ではありませんし、弱小者の強がり、遠吠えではありません。それは私たちが二人で心を合わせて祈る祈りに主は答えてくださるからです。そしてそれが罪を犯している誰かの回復のための祈りであればなおさらのことです。
 主はさらにおっしゃいます。「ふたり、または三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいる」。主の名によって集まって礼拝をささげる時、主の名によって信じる者たちが集まる時に、そこに、そのただ中に主ご自身がいてくださるというのです。何という大きな祝福、励ましでしょうか。

マタイ 18章21〜35節     2012年2月24日

わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか。(33)

「兄弟の罪」の問題が続きます。ペテロは自分の兄弟の誰かが自分に罪を犯す場合、何回ゆるすべきかという問題を提起します。人のことはともかく、自分が被害者の場合です。自分が主を信じる人の一人からひどい仕打ちをされた時、何度までゆるすか。それは決してやさしいことではないでしょう。その意味で、ペテロが提示した七回までというのは、とてもがんばった数字だと思います。けれども主イエスは七回を七十倍するまでと答えられたのでした。これはどこまでも限界なしにということでしょう。
 そして主イエスは、たとえ話をなさいます。一万タラントを赦された人がいたとする。一タラントは六千デナリ、それは二十年分の給料にあたります。すると一万タラントがいかに巨額であるかを知ることができるでしょう。もちろん、この人が友だちに貸していた百デナリも決して小さな金額ではありません。1デナリが一万円としたら百万円です。けれども、自分がどれだけゆるされているかを知ったらゆるすのが当然です。そして王なる主はそのことを私たちに期待しておられるのです。 


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